書經卷之二  蔡沉集傳


夏書 夏、禹有天下之號也。書凡四篇。禹貢作於虞時。而繫之夏書者、禹之王以是功也。
【読み】
夏書[かしょ] 夏は、禹の天下を有つの號なり。書は凡て四篇。禹貢は虞の時に作る。而るを之を夏書に繫ぐるは、禹の王たるは是の功を以てなればなり。


禹貢 上之所取、謂之賦、下之所供、謂之貢。是篇有貢有賦。而獨以貢名篇者、孟子曰、夏后氏五十而貢。貢者、較數歲之中、以爲常。則夏后氏田賦之總名。今文古文皆有。
【読み】
禹貢[うこう] 上の取る所、之を賦と謂い、下の供する所、之を貢と謂う。是の篇貢有り賦有り。而るを獨り貢を以て篇に名づくるは、孟子曰く、夏后氏は五十にして貢す、と。貢は、數歲の中を較べて、以て常とす。則ち夏后氏田賦の總名なり。今文古文皆有り。


禹敷土、隨山刋木、奠高山大川。敷、分也。分別土地、以爲九州也。奠、定也。定高山大川、以別州境也。若兗之濟河、靑之海岱、揚之淮海、雍之黑水西河、荆之荆衡、徐之海岱淮、豫之荆河、梁之華陽黑水、是也。方洪水橫流不辨區域。禹分九州之地、隨山之勢相其便宜、斬木通道以治之。又定其山之高者、與其川之大者、以爲之紀綱。此三者、禹治水之要。故作書者首述之。○曾氏曰、禹別九州、非用其私智。天文地理、區域各定。故星土之法、則有九野。而在地者、必有高山大川爲之限隔。風氣爲之不通、民生其閒亦各異族。故禹因高山大川之所限者、別爲九州、又定其山之高峻、水之深大者、爲其州之鎭。秩其祭而使其國主之也。
【読み】
禹土を敷[わか]ち、山に隨い木を刋[き]り、高山大川を奠[さだ]む。敷は、分かつなり。土地を分別して、以て九州とす。奠は、定むるなり。高山大川を定めて、以て州境を別つなり。兗の濟河、靑の海岱、揚の淮海、雍の黑水西河、荆の荆衡、徐の海岱淮、豫の荆河、梁の華陽黑水の若き、是れなり。洪水橫流するに方りて區域を辨えず。禹九州の地を分かち、山の勢に隨い其の便宜を相[み]、木を斬り道を通じて以て之を治む。又其の山の高き者と、其の川の大いなる者とを定めて、以て之が紀綱とす。此の三つの者は、禹水を治むるの要なり。故に書を作る者首めに之を述ぶ。○曾氏が曰く、禹九州を別つは、其の私智を用うるに非ず。天文地理、區域各々定まる。故に星土の法は、則ち九野有り。而して地に在る者は、必ず高山大川有りて之が限隔を爲す。風氣之が爲に通ぜず、民其の閒に生まれて亦各々族を異にす。故に禹高山大川の限る所の者に因りて、別ちて九州とし、又其の山の高峻、水の深大なる者を定めて、其の州の鎭とす。其の祭を秩で其の國をして之を主らしむ。

△冀州、冀州、帝都之地。三面距河。兗河之西、雍河之東、豫河之北。周禮職方、河内曰冀州是也。八州皆言疆界、而冀不言者、以餘州所至可見。晁氏曰、亦所以尊京師、示王者無外之意。
【読み】
△冀州より、冀州は、帝都の地。三面河に距[いた]る。兗河の西、雍河の東、豫河の北なり。周禮の職方に、河内を冀州と曰うとは是れなり。八州皆疆界を言いて、冀に言わざるは、餘州の至る所を以て見る可し。晁氏が曰く、亦京師を尊ぶ所以にして、王者に外無きの意を示す、と。

旣載壺口。經始治之、謂之載。壺口、山名。漢地志、在河東郡北屈縣東南。今隰州吉郷縣也。○今按旣載云者、冀州帝都之地。禹受命治水所始、在所當先。經始壺口等處、以殺河勢。故曰旣載。然禹治水施功之序、則皆自下流始。故次兗次靑、次徐次揚、次荆次豫、次梁次雍。兗最下。故所先。雍最高。故獨後。禹言、予決九川距四海、濬畎澮距川。卽其用工之本末、先決九川之水以距海、則水之大者有所歸。又濬畎澮以距川、則水之小者有所泄。皆自下流以疎殺其勢。讀禹貢之書、求禹功之序、當於此詳之。
【読み】
旣に壺口を載[はじ]む。經始して之を治むる、之を載と謂う。壺口は、山の名。漢の地志に、河東郡の北屈縣の東南に在り、と。今の隰州吉郷縣なり。○今按ずるに旣に載むと云うは、冀州は帝都の地。禹命を受けて水を治むることの始むる所は、當に先んずべき所在り。壺口等の處に經始して、以て河勢を殺[そ]ぐ。故に旣に載むと曰う。然も禹水を治め功を施すの序は、則ち皆下流より始む。故に次は兗次は靑、次は徐次は揚、次は荆次は豫、次は梁次は雍なり。兗は最も下れり。故に先んずる所なり。雍は最も高し。故に獨り後にす。禹言う、予れ九川を決[さく]りて四海に距り、畎澮[けんかい]を濬[さら]えて川に距る、と。卽ち其の工を用うるの本末、先ず九川の水を決りて以て海に距るときは、則ち水の大いなる者歸す所有り。又畎澮を濬えて以て川に距るときは、則ち水の小しき者泄[まじ]うる所有り。皆下流よりして以て其の勢いを疎[さく]り殺ぐ。禹貢の書を讀んで、禹功の序を求めば、當に此に於て之を詳らかにすべし。

△治梁及岐。梁・岐、皆冀州山。梁山、呂梁山也。在今石州離石縣東北。爾雅云、梁山晉望。則冀州呂梁也。呂不韋曰、龍門未闢、呂梁未鑿、河出孟門之上。又春秋、梁山崩。左氏穀梁、皆以爲晉山。則亦指呂梁矣。酈道元謂、呂梁之石崇竦河流激盪、震動天地。此禹旣事壺口、乃卽治梁也。岐山、在今汾州介休縣。狐岐之山、勝水所出。東北流注于汾。酈道元云、後魏於胡岐置六壁、防離石諸胡。因爲大鎭。今六壁城在勝水之側、實古河逕之險阨。二山河水所經、治之所以開河道也。先儒以爲雍州梁岐者非是。
【読み】
△梁及び岐を治む。梁・岐は、皆冀州の山。梁山は、呂梁の山なり。今石州離石縣の東北に在り。爾雅に云う、梁山は晉の望、と。則ち冀州の呂梁なり。呂不韋が曰く、龍門未だ闢けず、呂梁未だ鑿せず、河孟門の上に出づ、と。又春秋に、梁山崩る、と。左氏穀梁に、皆以て晉山とす。則ち亦呂梁を指すなり。酈道元が謂う、呂梁の石崇く竦[そび]えて河流激盪[げきとう]し、天地を震動す。此れ禹旣に壺口を事とし、乃ち卽ち梁を治むるなり。岐山は、今の汾州介休縣に在り。狐岐の山は、勝水の出づる所なり。東北に流れて汾に注ぐ。酈道元が云う、後魏胡岐に於て六壁を置いて、離石の諸胡を防ぐ。因りて大鎭とす、と。今の六壁城は勝水の側[ほとり]に在り、實に古の河逕の險阨[けんあい]なり。二山河水の經る所、之を治めて河道を開く所以なり。先儒以て雍州の梁岐とする者は是に非ず。

△旣修太原、至于岳陽。修、因鯀之功而修之也。廣平曰原。今河東路太原府也。岳、太岳也。周職方、冀州其山鎭曰霍山。地志謂、霍太山卽太岳。在河東郡彘縣東、今晉州霍邑也。山南曰陽。卽今岳陽縣地也。堯之所都。揚子雲冀州箴曰、岳陽是都、是也。蓋汾水出於太原、經於太岳、東入于河。此則導汾水也。
【読み】
△旣に太原を修めて、岳の陽[みなみ]に至る。修むとは、鯀の功に因りて之を修むるなり。廣く平らかなるを原と曰う。今の河東路太原府なり。岳は、太岳なり。周の職方に、冀州其の山鎭を霍山と曰う、と。地志に謂う、霍太山は卽ち太岳、と。河東郡彘[てい]縣の東に在り、今の晉州の霍邑なり。山の南を陽と曰う。卽ち今の岳陽縣の地なり。堯の都する所なり。揚子雲が冀州の箴に曰う、岳陽是れ都というは、是れなり。蓋し汾水は太原より出でて、太岳を經て、東して河に入る。此れ則ち汾水を導くなり。

△覃懷厎績、至於衡漳。覃懷、地名。地志河内郡有懷縣。今懷州也。曾氏曰、覃懷、平地也。當在孟津之東、太行之西。淶水出乎其西、淇水出乎其東。方洪水懷山襄陵之時、而平地致功爲難。故曰厎績。衡漳、水名。衡、古橫字。地志漳水二。一出上黨沾縣大黽谷。今平定軍樂平縣少山也。名爲淸漳。一出上黨長子縣鹿谷山。今潞州長子縣發鳩山也。名爲濁漳。酈道元謂之衡水。又謂之橫水。東至鄴合淸漳、東北至阜城入北河。鄴、今潞州涉縣也。阜城、今定遠軍東光縣也。○又按桑欽云、二漳異源而下流相合、同歸于海。唐人亦言、漳水能獨達于海、請以爲瀆。而不云入河者、蓋禹之導河、自洚水・大陸、至碣石入于海。本隨西山下東北去。周定王五年、河徙砱礫、則漸遷、而東漢初漳猶入河。其後河徙日東、而取漳水益遠。至欽時河自大伾而下。已非故道。而漳自入海矣。故欽與唐人所言者如此。
【読み】
△覃懷[たんかい]より績を厎[いた]して、衡漳[こうしょう]に至る。覃懷は、地の名。地志に河内郡に懷縣有り、と。今の懷州なり。曾氏が曰く、覃懷は、平地なり、と。當に孟津の東、太行の西に在るべし。淶[らい]水其の西より出でて、淇[き]水其の東より出づ。洪水山を懷[か]ね陵に襄[のぼ]るの時に方りて、平地功を致すこと難きとす。故に績を厎すと曰う。衡漳は、水の名。衡は、古の橫の字なり。地志に漳水は二つ。一つは上黨沾[てん]縣の大黽[べん]谷より出づ。今の平定軍樂平縣の少山なり。名づけて淸漳とす。一つは上黨長子縣の鹿谷山より出づ。今の潞[ろ]州長子縣の發鳩山なり。名づけて濁漳とす、と。酈道元が之を衡水と謂う。又之を橫水と謂う。東は鄴[ぎょう]に至りて淸漳に合い、東北して阜城に至りて北河に入る。鄴は、今の潞州涉縣なり。阜城は、今の定遠軍東光縣なり。○又按ずるに桑欽が云う、二漳は源を異にして下流相合いて、同じく海に歸す、と。唐人も亦言う、漳水能く獨り海に達し、請けて以て瀆を爲す、と。而るに河に入ると云わざるは、蓋し禹の河を導くは、洚水・大陸より、碣石[けっせき]に至りて海に入る。本西山の下[ふもと]に隨いて東北に去る。周の定王の五年、河砱礫[れいれき]に徙[うつ]るときは、則ち漸く遷りて、東漢の初めも漳は猶河に入る。其の後河の徙ること日に東して、漳水を取ること益々遠し。欽が時に至りて河大伾[ひ]よりして下る。已に故道に非ず。而して漳自ずから海に入る。故に欽と唐人との言う所の者此の如し。

△厥土惟白壤。漢孔氏曰、無塊曰壤。顏氏曰、柔土曰壤。夏氏曰、周官大司徒、辨十有二壤之物、而知其種、以敎稼穡樹藝、以土均之法、辨五物九等、制天下之地征。則夫敎民樹藝、與因地制貢、固不可不先於辨土也。然辨土之宜有二。白以辨其色、壤以辨其性也。蓋草人糞壤之法、騂剛用牛、赤緹用羊、墳壤用麋、渴澤用鹿。糞治田疇、各因色性而辨其所當用也。曾氏曰、冀州之土、豈皆白壤。云然者、土會之法、從其多者論也。
【読み】
△厥の土は惟れ白壤なり。漢の孔氏が曰く、塊無きを壤と曰う、と。顏氏が曰く、柔土を壤と曰う、と。夏氏が曰く、周官の大司徒に、十有二壤の物を辨えて、其の種を知りて、以て稼穡樹藝を敎え、土均の法を以て、五物九等を辨え、天下の地征を制す、と。則ち夫れ民に樹藝を敎うると、地に因りて貢を制すると、固に辨土を先んぜずんばある可からず。然も辨土の宜は二つ有り。白は以て其の色を辨え、壤は以て其の性を辨う。蓋し草人糞壤の法、騂剛[せいごう]に牛を用い、赤緹[せきてい]に羊を用い、墳壤に麋[おおじか]を用い、渴澤に鹿を用う。田疇を糞[つちか]い治むるに、各々色性に因りて其の當に用うべき所を辨う、と。曾氏が曰く、冀州の土は、豈皆白壤ならんや。然[しか]云う者は、土會の法、其の多き者に從りて論ずればなり、と。

△厥賦惟上上錯。厥田惟中中。賦、田所出穀米兵車之類。錯、雜也。賦第一等、而錯出第二等也。田第五等也、賦高於田四等者、地廣而人稠也。林氏曰、冀州先賦後田者、冀王畿之地、天子所自治、倂與場圃・園田・漆林之類而征之。如周官載師所載。賦非盡出於田也。故以賦屬于厥土之下。餘州皆田之賦也。故先田而後賦。又按九州九等之賦、皆每州歲入總數、以九州多寡相較而爲九等。非以是等田而責其出是等賦也。冀獨不言貢篚者、冀天子封内之地、無所事於貢篚也。
【読み】
△厥の賦は惟れ上の上にして錯[まじ]われり。厥の田は惟れ中の中なり。賦は、田の出だす所の穀米兵車の類なり。錯は、雜わるなり。賦第一等にして、第二等を錯え出だす。田は第五等にして、賦の田四等より高き者は、地廣くして人稠[おお]ければなり。林氏が曰く、冀州賦を先にして田を後にする者は、冀は王畿の地にて、天子自ら治むる所、場圃・園田・漆林の類とを倂せて之を征す。周官の載師に載る所の如し。賦は盡く田より出づるに非ず。故に賦を以て厥の土の下に屬す。餘の州は皆田の賦なり。故に田を先にして賦を後にす、と。又按ずるに九州九等の賦は、皆每州の歲入の總數は、九州の多寡を以て相較べて九等とす。是れ等の田を以て其の是れ等の賦を出だすことを責むるに非ず。冀獨り貢篚[こうひ]と言わざるは、冀は天子の封内の地、貢篚を事とする所無ければなり。

△恆・衛旣從。大陸旣作。恆・衛、二水名。恆水、地志出常山郡上、曲陽縣。恆山・北谷、在今定州曲陽縣西北恆山也。東入滱水。薛氏曰、東流合滱水、至瀛州高陽縣入易水。晁氏曰、今之恆水、西南流至眞定府行唐縣、東流入于滋水、又南流入于衡水。非古逕矣。衛水、地志出常山郡靈壽縣東北。卽今眞定府靈壽縣也。東入滹沱河。蘇氏曰、東北合滹沱河、過信安軍入易水。從、從其道也。大陸、孫炎曰、鉅鹿北廣阿澤。河所經也。程氏曰、鉅鹿去古河絕遠。河未嘗逕邢以行。鉅鹿之廣河非是。按爾雅、高平曰陸。大陸云者、四無山阜。曠然平地。蓋禹河自澶相以北、皆行西山之麓。故班・馬・王橫皆謂、載之高地。卽古河之在具冀、以及枯洚之南、率皆穿西山、踵趾以行。及其已過信洚之北、則西山勢斷、曠然四平。蓋以此地謂之大陸。乃與下文北至大陸者合。故隋改趙之昭慶、以爲大陸縣、唐又割鹿城置陸渾縣。皆疑鉅鹿之大陸不與河應、而亦求之向北之地。杜佑・李吉甫以爲、邢・趙・深三州爲大陸者得之。作者、言可耕治。水患旣息、而平地之廣衍者亦可耕治也。恆・衛水小而地遠。大陸地平而近河。故其成功於田賦之後。
【読み】
△恆・衛旣に從えり。大陸旣に作れり。恆・衛は、二水の名。恆水は、地志に常山郡の上[ほとり]、曲陽縣より出づ、と。恆山・北谷は、今の定州曲陽縣の西北の恆山に在り。東して滱水[こうすい]に入る。薛氏が曰く、東流して滱水に合い、瀛[えい]州高陽縣に至りて易水に入る、と。晁氏が曰く、今の恆水は、西南に流れて眞定府行唐縣に至りて、東流して滋水に入り、又南流して衡水に入る。古の逕に非ず、と。衛水は、地志に常山郡靈壽縣の東北より出づ、と。卽ち今の眞定府靈壽縣なり。東は滹沱[こた]河に入る。蘇氏が曰く、東北して滹沱河に合い、信安軍を過ぎて易水に入る、と。從は、其の道に從うなり。大陸は、孫炎が曰く、鉅鹿の北廣阿澤なり。河の經る所なり、と。程氏が曰く、鉅鹿の古の河を去ること絕[はなは]だ遠し。河未だ嘗て邢を逕[へ]て以て行かず。鉅鹿の廣河は是れに非ず、と。爾雅を按ずるに、高平を陸と曰う。大陸と云う者は、四に山阜無し。曠然たる平地なり。蓋し禹の河は澶相[せんそう]より以て北、皆西山の麓を行く。故に班・馬・王橫皆謂う、之を高地に載[はじ]む、と。卽ち古の河の具冀に在りて、以て枯洚の南に及び、率ね皆西山を穿ちて、踵趾以て行く。其の已に信洚の北を過ぐるに及んで、則ち西山勢い斷ちて、曠然として四平らかなり。蓋し此の地を以て之を大陸と謂う。乃ち下の文の北して大陸に至る者と合う。故に隋趙の昭慶を改めて、以て大陸縣とし、唐も又鹿城を割きて陸渾縣を置く。皆疑うらくは鉅鹿の大陸は河と應ぜずして、亦之を向北の地に求む。杜佑・李吉甫以爲えらく、邢・趙・深の三州を大陸とする者は之を得たり、と。作とは、言うこころは、耕治す可きなり。水患旣に息んで、平地の廣衍なる者亦耕治す可きなり。恆・衛は水小にして地遠し。大陸は地平らかにして河に近し。故に其の成功は田賦の後に於てす。

△島夷皮服。海曲曰島。海島之夷、以皮服來貢也。
【読み】
△島夷皮服す。海曲を島と曰う。海島の夷、皮服を以て來貢す。

△夾右碣石、入于河。碣石、地志在北平郡驪城縣、西南河口之地。今平州之南也。冀州北方貢賦之來、自北海入河、南向西轉、而碣石在其右轉屈之閒。故曰夾右也。程氏曰、冀爲帝都。東西南三面距河。他州貢賦、皆以達河爲至。故此三方亦不必書、而其北境則漢遼東、西右北平・漁陽・上谷之地。其水如遼・濡・滹・易、皆中高不與河通。故必自北海然後能達河也。又按酈道元言、驪城枕海。有石如甬道。數十里、當山頂有大石如柱形。韋昭以爲、碣石其山昔在河口海濱。故以誌其入貢河道、歷世旣久。爲水所漸、淪入于海。已去岸五百餘里矣。戰國策以碣石在常山郡九門縣者、恐名偶同。而鄭氏以爲、九門無此山也。
【読み】
△碣石[けっせき]を夾んで右にして、河に入る。碣石は、地志に北平郡驪城縣、西南の河口の地に在り、と。今の平州の南なり。冀州北方の貢賦の來るは、北海より河に入り、南に向かい西に轉じて、碣石は其の右轉屈するの閒に在り。故に夾んで右にすと曰うなり。程氏が曰く、冀は帝都爲り。東西南の三面は河に距[いた]る。他の州の貢賦は、皆河に達するを以て至るとす。故に此の三方も亦必ずしも書せずして、其の北境は則ち漢の遼東、西は右北平・漁陽・上谷の地なり。其の水の遼・濡・滹・易の如きは、皆中高にして河と通ぜず。故に必ず北海よりして然して後に能く河に達す。又按ずるに酈道元が言う、驪城は海に枕[のぞ]む。石有りて甬道の如し。數十里にして、山頂に當たりて大石有りて柱形の如し、と。韋昭以爲えらく、碣石と其の山は昔河口海濱に在り。故に以て其の入貢河道を誌すこと、歷世旣に久し。水の爲に漸[ひた]されて、淪[しず]んて海に入る。已に岸を去ること五百餘里なり、と。戰國策に碣石を以て常山郡九門縣に在りというは、恐らくは名偶々同じからん。而も鄭氏以爲えらく、九門に此の山無し、と。

△濟・河惟兗州。兗州之域、東南據濟、西北距河。濟河見導水。蘇氏曰、河濟之閒、相去不遠。兗州之境、東南跨濟、非止於濟也。愚謂、河昔北流。兗州之境、北盡碣石河右之地、後碣石之地、淪入於海。河益徙而南。濟河之閒、始相去不遠。蘇氏之說、未必然也。○林氏曰、濟古文作泲。說文註云、此兗州之濟也。其從水從齊者、說文註云、出常山房子縣贊皇山。則此二字音同義異。當以古文爲正。
【読み】
△濟・河は惟れ兗[えん]州なり。兗州の域は、東南は濟に據り、西北は河に距る。濟河は導水に見えたり。蘇氏が曰く、河濟の閒、相去ること遠からず。兗州の境は、東南は濟を跨ぎ、濟に止まるに非ず、と。愚謂えらく、河は昔北に流る。兗州の境は、北は碣石河の右の地を盡くし、後に碣石の地は、淪んで海に入る。河益々徙りて南す。濟河の閒は、始め相去ること遠からず。蘇氏の說は、未だ必ずしも然らざるなり。○林氏が曰く、濟は古文に泲[せい]に作る。說文の註に云う、此れ兗州の濟なり、と。其れ水に從い齊に從う者は、說文の註に云う、常山房子縣の贊皇山より出づ、と。則ち此の二字は音同じくして義異なり。當に古文を以て正しきとすべし、と。

△九河旣道。九河、爾雅一曰徒駭、二曰太史、三曰馬頰、四曰覆鬴、五曰胡蘇、六曰簡潔、七曰鈎盤、八曰鬲津。其一則河之經流也。先儒不知河之經流、遂分簡潔爲二。旣道者、旣順其道也。按徒駭河、地志云、滹沱河。寰宇記云、在滄州淸池南。許商云、在平城。馬頰河、元和志、在德州安德平原南東。寰宇記云、在棣州滴河北。輿地記云、卽篤馬河也。覆鬴河、通典云、在德州安德。胡蘇河、寰宇記云、在滄之饒安・無棣・臨津三縣。許商云、在東光。簡潔河、輿地記云、在臨津。鈎盤河、寰宇記云、在樂陵東南、從德州平昌來。輿地記云、在樂陵。鬲津河、寰宇記云、在樂陵東。西北流入饒安。許商云、在鬲縣。輿地記云、在無棣。太史河、不知所在。自漢以來、講求九河者甚詳。漢世近古。止得其三。唐人集累世積傳之語、遂得其六。歐陽忞輿地記、又得其一。或新河而載以舊名、或一地而互爲兩說。要之皆似是而非。無所依據。至其顯然謬誤者、則班固以滹沱爲徒駭、而不知滹沱不與古河相涉。樂史、馬頰乃以漢篤馬河當之。鄭氏求之不得、又以爲九河齊桓塞其八流以自廣。夫曲防齊之所禁。塞河宜非桓公之所爲也。河水可塞、而河道果能盡平乎。皆無稽考之言也。惟程氏以爲九河之地、已淪於海。引碣石爲九河之證。以謂、今滄州之地、北與平州接境、相去五百餘里。禹之九河、當在其地。後爲海水淪沒。故其迹不存。方九河未沒於海之時、從今海岸東北、更五百里平地、河播爲九、在此五百里中。又上文言夾右碣石、則九河入海之處、有碣石在其西北岸、九河水道變遷、難於推考。而碣石通趾頂皆石、不應仆沒。今兗冀之地、旣無此石。而平州正南、有山而名碣石者、尙在海中、去岸五百餘里。卓立可見、則是古河。自今以爲海處、向北斜行、始分爲九。其河道已淪入於海明矣。漢王橫言、昔天常連雨、東北風、海水溢西南出浸數百里。九河之地、已爲海水所漸。酈道元亦謂、九河碣石苞淪於海。後世儒者知求九河於平地、而不知求碣石有無、以爲之證。故前後異說、竟無歸宿。蓋非九河之地、而强鑿求之。宜其支離而不能得也。
【読み】
△九河旣に道なる。九河は、爾雅に一に曰く徒駭、二に曰く太史、三に曰く馬頰、四に曰く覆鬴[ふくふ]、五に曰く胡蘇、六に曰く簡潔、七に曰く鈎盤、八に曰く鬲津[かくしん]、と。其の一は則ち河の經流なり。先儒河の經流を知らず、遂に簡潔を分かちて二つとす。旣に道なるとは、旣に其の道に順うなり。按ずるに徒駭河は、地志に云う、滹沱[こた]河なり、と。寰宇記[かんうき]に云う、滄州淸池の南に在り、と。許商が云う、平城に在り、と。馬頰河は、元和志に、德州安德平原の南東に在り、と。寰宇記に云う、棣州滴河の北に在り、と。輿地記に云う、卽ち篤馬河なり、と。覆鬴河は、通典に云う、德州安德に在り、と。胡蘇河は、寰宇記に云う、滄の饒安・無棣・臨津の三縣に在り、と。許商が云う、東光に在り、と。簡潔河は、輿地記に云う、臨津に在り、と。鈎盤河は、寰宇記に云う、樂陵の東南に在り、德州の平昌より來る、と。輿地記に云う、樂陵に在り、と。鬲津河は、寰宇記に云う、樂陵の東に在り。西北に流れて饒安に入る、と。許商が云う、鬲縣に在り、と。輿地記に云う、無棣に在り、と。太史河は、在る所を知らず。漢より以來、九河を講求する者甚だ詳らかなり。漢の世は古に近し。止其の三つを得るのみ。唐人累世積傳の語を集めて、遂に其の六つを得たり。歐陽忞[びん]輿地記に、又其の一つを得。或は新河にして載するに舊名を以てし、或は一地にして互いに兩說を爲す。之を要するに皆是に似て非なり。依り據る所無し。其の顯然として謬誤する者に至りては、則ち班固滹沱を以て徒駭として、滹沱は古の河と相涉[かかわらざることを知らず。樂史は、馬頰を乃ち漢の篤馬河を以て之に當てる。鄭氏之を求めて得ず、又以爲えらく、九河は齊の桓が其の八流を塞いで以て自ら廣む、と。夫れ防を曲ぐるは齊の禁ずる所。河を塞ぐは宜しく桓公の爲す所に非ざるべし。河水塞ぐ可くして、河道果たして能く盡く平らかならんや。皆稽え考うること無きの言なり。惟程氏のみ以爲えらく、九河の地、已に海に淪む、と。碣石を引いて九河の證とす。以謂えらく、今や滄州の地、北は平州と境を接し、相去ること五百餘里なり。禹の九河は、當に其の地に在るべし。後に海水の爲に淪沒す。故に其の迹存せず。九河の未だ海に沒せざるの時に方りて、今の海岸の東北より、更に五百里の平地、河播いて九つと爲り、此の五百里の中に在り。又上の文に碣石を夾んで右にすと言うときは、則ち九河海に入るの處、碣石有りて其の西北の岸に在り、九河の水道變遷して、推考し難し。而して碣石趾頂に通じて皆石にて、應に仆沒すべからず。今兗冀の地、旣に此の石無し。而して平州の正南に、山有りて碣石と名づくるは、尙海中に在り、岸を去ること五百餘里なり。卓立して見る可きときは、則ち是れ古の河なり。今以て海の處と爲りてより、北に向かいて斜めに行き、始めて分かれて九つと爲る。其の河道已に淪んで海に入ること明らかなり。漢の王橫が言う、昔天常に連雨し、東北の風あり、海水西南に溢れて出で浸すこと數百里。九河の地、已に海水の爲に漸[ひた]さるる、と。酈道元も亦謂う、九河碣石海に苞淪す、と。後世の儒者九河を平地に求むることを知りて、碣石の有無を求めて、以て之が證とすることを知らず。故に前後の異說、竟に歸宿無し。蓋し九河の地に非ずして、强いて鑿ちて之を求む。宜なり其れ支離して得ること能わざること。

△雷夏旣澤。澤者、水之鐘也。雷夏、地志在濟陰郡城陽縣西北。今濮州雷澤縣西北也。山海經云、澤中有雷神。龍身而人頰。鼓其腹則雷。然則本夏澤也。因其神名之曰雷夏也。洪水橫流而入于澤、澤不能受、則亦泛濫奔潰。故水治而後雷夏爲澤。
【読み】
△雷夏旣に澤となる。澤は、水の鐘[あつ]まれるなり。雷夏は、地志に濟陰郡城陽縣の西北に在り、と。今の濮州雷澤縣の西北なり。山海經に云う、澤中に雷神有り。龍身にして人頰なり。其の腹を鼓すれば則ち雷なる、と。然らば則ち本夏澤なり。其の神に因りて之を名づけて雷夏と曰う。洪水橫流して澤に入り、澤受くること能わざるときは、則ち亦泛濫奔潰す。故に水治めて而して後に雷夏澤と爲る。

△灉・沮會同。灉・沮、二水名。灉水、曾氏曰、爾雅水自河出爲灉。許愼云、河灉水在宋。又曰、汳水受陳留浚儀陰溝、至蒙爲灉水。東入于泗水。經汳水出陰溝、東至蒙爲徂獾、則灉水卽汳水也。灉之下流、入于睢水。沮水、地志睢水出沛國芒縣。睢水其沮水歟。晁氏曰、爾雅云、自河出爲灉、濟出爲濋。求之於韻、沮有楚音。二水河濟之別也。二說未詳孰是。會者、水之合也。同者、合而一也。
【読み】
△灉[よう]・沮[そ]會同す。灉・沮は、二水の名。灉水は、曾氏が曰く、爾雅に水河より出づるを灉とす、と。許愼が云う、河灉水は宋に在り、と。又曰く、汳[べん]水陳留浚儀の陰溝を受けて、蒙に至りて灉水と爲る。東して泗水に入る。汳水を經て陰溝を出で、東して蒙に至りて徂獾[そかん]と爲るときは、則ち灉水は卽ち汳水なり、と。灉の下流は、睢[き]水に入る。沮水は、地志に睢水は沛國芒縣より出づ、と。睢水は其れ沮水か。晁氏が曰く、爾雅に云う、河より出づるを灉とし、濟より出づるを濋とす、と。之を韻に求むるに、沮は楚の音有り。二水は河濟の別なり、と。二說未だ孰か是なるか詳らかならず。會とは、水の合うなり。同とは、合いて一つになるなり。

△桑土旣蠶。是降丘宅土。桑土、宜桑之土。旣蠶者、可以蠶桑也。蠶性惡濕。故水退而後可蠶。然九州皆賴其利。而獨於兗言之者、兗地宜桑。後世之濮上桑閒、猶可驗也。地高曰丘。兗地多在卑下、水害尤甚。民皆依丘陵以居。至是始得下居平地也。
【読み】
△桑土旣に蠶[こかい]す。是に丘を降りて土に宅る。桑土は、桑に宜きの土なり。旣に蠶すとは、以て蠶桑す可きなり。蠶の性は濕を惡む。故に水退いて而して後に蠶す可し。然も九州は皆其の利に賴る。而るに獨り兗に於て之を言うは、兗の地は桑に宜し。後世の濮上桑閒、猶驗す可し。地高きを丘と曰う。兗の地は多く卑下に在り、水害尤も甚だし。民皆丘陵に依りて以て居る。是に至りて始めて下りて平地に居ることを得。

△厥土黑墳、厥草惟繇、厥木惟條。墳、土脈墳起也。如左氏所謂祭之地地墳、是也。繇、茂。條、長也。○林氏曰、九州之勢、西北多山、東南多水。多山則草木爲宜。不待書也。兗・徐・揚三州、最居東南下流。其地卑濕沮洳、洪水爲患、草木不得其生。至是或繇或條、或夭或喬、而或漸苞。故於三州特言之、以見水土平、草木亦得遂其性也。
【読み】
△厥の土は黑く墳[うごも]てり、厥の草は惟れ繇[しげ]り、厥の木は惟れ條[なが]し。墳は、土脈墳起するなり。左氏に所謂之を地に祭るに地墳てりというが如き、是れなり。繇[よう]は、茂る。條は、長きなり。○林氏が曰く、九州の勢、西北は山多く、東南は水多し。山多きときは則ち草木宜しきを爲す。書するを待たず。兗・徐・揚の三州は、最も東南の下流に居る。其の地は卑濕沮洳にて、洪水患えを爲し、草木其の生を得ず。是に至りて或は繇り或は條く、或は夭[わか]く或は喬[たか]くして、或は漸苞す。故に三州に於て特に之を言いて、以て水土平らいで、草木も亦其の性を遂ぐるを得るを見すなり。

△厥田惟中下。厥賦貞。作十有三載、乃同。田第六等、賦第九等。貞、正也。兗賦最薄。言君天下者、以薄賦爲正也。作十有三載乃同者、兗當河下流之衝、水激而湍悍、地平而土疎、被害尤劇。今水患雖平、而卑濕沮洳、未必盡去、土曠人稀、生理鮮少。必作治十有三載、然後賦法同於他州。此爲田賦而言。故其文屬於厥賦之下。先儒以爲禹治水所歷之年。且謂、此州治水最在後畢。州爲第九成功。因以上文厥賦貞者、謂賦亦第九。與州正爲相當、殊無意義。其說非是。
【読み】
△厥の田は惟れ中の下なり。厥の賦は貞し。作ること十有三載にして、乃ち同じ。田は第六等にて、賦は第九等なり。貞は、正しきなり。兗は賦最も薄し。言うこころは、天下に君たる者は、薄賦を以て正とす。作ること十有三載にして乃ち同じとは、兗は河の下流の衝に當たりて、水激して湍悍[たんかん]し、地平らかにして土疎[あら]く、害を被ること尤も劇[はなは]だし。今水患平らぐと雖も、而して卑濕沮洳、未だ必ずしも盡く去らず、土曠く人稀にして、生理鮮少なり。必ず作治十有三載にして、然して後に賦法他州に同じくす。此れ田賦の爲にして言う。故に其の文は厥の賦の下に屬[つら]ぬ。先儒以て禹水を治めて歷る所の年とす。且つ謂う、此の州の水を治むること最も後に在りて畢わる。州は第九の成功を爲す、と。因りて上の文の厥の賦は貞しという者を以て、賦も亦第九なりと謂う。州と正に相當たることを爲すは、殊に意義無し。其の說是に非ず。

△厥貢漆絲。厥篚織文。貢者、下獻厥土所有於上也。兗地宜漆宜桑。故貢漆絲也。篚、竹器。筺屬也。古者幣帛之屬、則盛之以筺篚而貢焉。經曰、篚厥玄黃是也。織文者、織而有文。錦綺之屬也。以非一色、故以織文總之。林氏曰、有貢又有篚者、所貢之物入於篚也。
【読み】
△厥の貢は漆絲。厥の篚[はこもの]は織文あり。貢は、下厥の土の有する所を上に獻ずるなり。兗の地は漆に宜く桑に宜し。故に漆絲を貢す。篚は、竹器。筺の屬なり。古の幣帛の屬は、則ち之を盛るに筺篚[きょうひ]を以てして貢す。經に曰く、厥の玄黃を篚にすとは是れなり。織文は、織りて文有り。錦綺の屬なり。一色に非ざるを以て、故に織文を以て之を總ぶ。林氏が曰く、貢有りて又篚有る者は、貢する所の物を篚に入るるなり、と。

△浮于濟・漯、達于河。舟行水曰浮。漯者、河之枝流也。兗之貢賦浮濟浮漯、以達於河也。帝都冀州三面距河、達河、則達帝都矣。又按地志曰、漯水出東郡東武陽、至千乘入海。程氏以爲、此乃漢河、與漯殊異。然亦不能明言漯河所在。未詳其地也。
【読み】
△濟・漯[とう]に浮かんで、河に達す。舟水を行くを浮と曰う。漯は、河の枝流なり。兗の貢賦濟に浮かび漯に浮かんで、以て河に達するなり。帝都冀州三面は河に距り、河に達するときは、則ち帝都に達するなり。又地志を按ずるに曰く、漯水は東郡東武陽より出でて、千乘に至りて海に入る、と。程氏以爲えらく、此れ乃ち漢河にて、漯と殊に異なり、と。然れども亦明らかに漯河の在る所を言うこと能わず。未だ其の地を詳らかにせざるなり。

△海・岱惟靑州。靑州之域、東北至海、西南距岱。岱、泰山也。在今襲慶府奉府縣西北三十里。
【読み】
△海・岱は惟れ靑州なり。靑州の域は、東北は海に至り、西南は岱に距る。岱は、泰山なり。今の襲慶府奉府縣の西北三十里に在り。

△嵎夷旣略。嵎夷、薛氏曰、今登州之地。略、經略爲之封畛也。卽堯典之嵎夷。
【読み】
△嵎夷[ぐうい]旣に略[かぎ]れり。嵎夷は、薛氏が曰く、今の登州の地、と。略は、經略して之が封畛[ほうしん]を爲すなり。卽ち堯典の嵎夷なり。

△濰・淄其道。濰・淄、二水名。濰水、地志云、出琅琊郡箕縣。今密州莒縣東北濰山也。北至都昌入海。今濰州昌邑也。淄水地志云、出泰山郡萊蕪縣原山。今淄州淄川縣東南七十里原山也。東至慱昌縣入濟。今靑州壽光縣也。其道者、水循其道也。上文言旣道者、禹爲之道也。此言其道者、泛濫旣去、水得其故道也。林氏曰、河濟下流、兗受之。淮下流、徐受之。江漢下流、揚受之。靑雖近海、然不當衆流之衝。但濰淄二水、順其故道、則其功畢矣。比之他州、用力最省者也。
【読み】
△濰[い]・淄[し]其れ道なる。濰・淄は、二水の名。濰水は、地志に云う、琅琊郡箕縣より出づ、と。今の密州莒[きょ]縣の東北の濰山なり。北は都昌に至りて海に入る。今の濰州の昌邑なり。淄水は地志に云う、泰山郡萊蕪縣の原山より出づ、と。今の淄州淄川縣の東南七十里の原山なり。東は慱昌[たんしょう]縣に至りて濟に入る、と。今の靑州壽光縣なり。其れ道なるとは、水其の道に循うなり。上の文に旣に道なると言うは、禹之が道を爲るなり。此に其れ道なると言うは、泛濫旣に去りて、水其の故道を得るなり。林氏が曰く、河濟の下流、兗之を受く。淮の下流、徐之を受く。江漢の下流、揚之を受く。靑は海に近しと雖も、然れども衆流の衝に當たらず。但濰淄の二水、其の故道に順うときは、則ち其の功畢わる。之を他州に比するに、力を用ゆること最も省せる者なり、と。

△厥土白墳。海濱廣斥。濱、涯也。海涯之地、廣漠而斥鹵。許愼曰、東方謂之斥、西方謂之鹵。斥鹵、鹹地、可煮爲鹽者也。
【読み】
△厥の土は白くして墳[うごも]てり。海濱廣き斥あり。濱は、涯なり。海涯の地は、廣漠にして斥鹵[ろ]なり。許愼が曰く、東方を之を斥と謂い、西方を之を鹵と謂う、と。斥鹵は、鹹地[かんち]、煮て鹽[しお]を爲る可き者なり。

△厥田惟上下。厥賦中上。田第三、賦第四也。
【読み】
△厥の田は惟れ上の下なり。厥の賦は中の上なり。田は第三、賦は第四なり。

△厥貢鹽・絺。海物惟錯。岱畎絲・枲・鈆・松・怪石。萊夷作牧、厥篚檿絲。鹽、斥地所出。絺、細葛也。錯、雜也。海物、非一種。故曰錯。林氏曰、旣總謂之海物、則固非一物矣。此與揚州齒革・羽毛・惟木文勢正同。錯、蓋別爲一物。如錫貢磬錯之錯、理或然也。畎、谷也。岱山之谷也。枲、麻也。怪石、怪異之石也。林氏曰、怪石之貢、誠爲可疑。意其必須以爲器用之飾、而有不可闕者。非特貢其怪異之石、以爲玩好也。萊夷、顏師古曰、萊山之夷。齊有萊侯萊人。卽今萊州之地。作牧者、言可牧放。夷人以畜牧爲生也。檿、山桑也。山桑之絲其韌中琴瑟之絃。蘇氏曰、惟東萊爲有此絲、以之爲繒。其堅韌異常。萊人謂之山蠒。
【読み】
△厥の貢は鹽・絺[ち]、海物惟れ錯われり。岱の畎[たに]は絲・枲[し]・鈆[なまり]・松・怪石なり。萊夷牧を作し、厥の篚は檿絲[えんし]なり。鹽は、斥地の出だす所。絺は、細き葛なり。錯は、雜わるなり。海物は、一種に非ず。故に錯と曰う。林氏が曰く、旣に總べて之を海物と謂うときは、則ち固に一物に非ず。此れ揚州の齒革・羽毛・惟れ木と文勢正に同じ、と。錯は、蓋し別に一物を爲す。磬錯を錫わりて貢するの錯の如き、理或は然らん。畎は、谷なり。岱山の谷なり。枲は、麻なり。怪石は、怪異の石なり。林氏が曰く、怪石の貢は、誠に疑う可きことを爲す。意うに其れ必ず須ち以て器用の飾りを爲して、闕く可からざること有る者ならん。特に其の怪異の石を貢して、以て玩好を爲すに非ず、と。萊夷は、顏師古が曰く、萊山の夷。齊に萊侯萊人有り、と。卽ち今の萊州の地なり。牧を作すとは、言うこころは、牧放す可し。夷人は畜牧を以て生を爲す。檿は、山桑なり。山桑の絲は其の韌[つよ]きこと琴瑟の絃に中る。蘇氏が曰く、惟れ東萊に此の絲有るが爲に、之を以て繒[きぬ]に爲る。其の堅韌[けんじん]なること常に異なり。萊人之を山蠒[やままゆ]と謂う、と。

△浮于汶、達于濟。汶水、出泰山郡萊蕪縣原山。今襲慶府萊蕪縣也。西南入濟。在今鄆州中都縣也。蓋淄水、出萊蕪原山之陰、東北而入海。汶水、出萊蕪原山之陽、西南而入濟。不言達河者、因於兗也。
【読み】
△汶[ぶん]に浮かんで、濟に達す。汶水は、泰山郡萊蕪縣の原山より出づ。今の襲慶府萊蕪縣なり。西南して濟に入る。今の鄆[うん]州中都縣に在り。蓋し淄水は、萊蕪原山の陰[きた]より出でて、東北して海に入る。汶水は、萊蕪原山の陽[みなみ]より出でて、西南して濟に入る。河に達すと言わざるは、兗に因ればなり。

△海・岱及淮、惟徐州。徐州之域、東至海、南至淮、北至岱、而西不言濟者、岱之陽、齊東爲徐、岱之北、濟東爲靑、言濟不足以辨。故略之也。爾雅濟東曰徐州者、商無靑。幷靑於徐也。周禮正東曰靑州者、周無徐。幷徐於靑也。林氏曰、一州之境、必有四至。七州皆止二至、蓋以鄰州互見。至此州獨載其三邉者、止言海岱、則嫌於靑、止言淮海則嫌於揚。故必曰海岱及淮、而後徐州之疆境始別也。
【読み】
△海・岱及び淮は、惟れ徐州なり。徐州の域、東は海に至り、南は淮に至り、北は岱に至りて、西に濟を言わざるは、岱の陽[みなみ]、齊の東を徐と爲し、岱の北、濟の東を靑と爲し、濟を言いて以て辨ずるに足らず。故に之を略せり。爾雅に濟の東を徐州と曰うは、商に靑無し。靑を徐に幷すればなり。周禮に正東を靑州と曰うは、周に徐無し。徐を靑に幷すればなり。林氏が曰く、一州の境は、必ず四至有り。七州皆二至に止まるは、蓋し鄰州を以て互いに見る。此の州に至りて獨り其の三邉を載する者は、止海岱と言うときは、則ち靑に嫌あり、止淮海と言うときは則ち揚に嫌あり。故に必ず海岱及び淮と曰いて、而して後に徐州の疆境始めて別る、と。

△淮・沂其乂。淮・沂、二水名。淮、見導水。曾氏曰、淮之源出于豫之境。至揚・徐之閒始大。其泛濫爲患尤在於徐。故淮之治、於徐言之也。沂水、地志云、出泰山郡蓋縣艾山。今沂州沂水縣也。南至于下邳、西南而入于泗。曾氏曰、徐州水以沂名者非一。酈道元謂、水出尼丘山西北、徑魯之雩門、亦謂之沂水。水出太公武陽之冠石山、亦謂之沂水。而沂水之大、則出於泰山也。又按徐之水、有泗有汶、有汴有漷、而獨以淮沂言者、周職方氏靑州其川淮・泗、其浸沂・沭。周無徐州。兼之於靑。周之靑卽禹之徐。卽徐之川莫大於淮。淮乂、則自泗而下、凡爲川者可知矣。徐之浸莫大於沂。沂乂、則自沭而下、凡爲浸者可知矣。
【読み】
△淮・沂其れ乂[おさ]まる。淮・沂は、二水の名。淮は、導水に見えたり。曾氏が曰く、淮の源は豫の境より出づ。揚・徐の閒に至りて始めて大いなり。其の泛濫の患えを爲すこと尤も徐に在り。故に淮の治は、徐に於て之を言う、と。沂水は、地志に云う、泰山郡蓋縣の艾山[がいざん]より出づ、と。今の沂州沂水縣なり。南して下邳[ひ]に至り、西南して泗に入る。曾氏が曰く、徐州の水の沂を以て名づくる者は一に非ず、と。酈道元が謂う、水の尼丘山の西北より出でて、魯の雩門[うもん]を徑る、亦之を沂水と謂う。水の太公武陽の冠石山より出づる、亦之を沂水と謂う。而して沂水の大いなるは、則ち泰山より出づ、と。又按ずるに徐の水に、泗有り汶有り、汴[べん]有り漷[かく]有りて、獨り淮沂を以て言う者は、周の職方氏に靑州の其の川は淮・泗、其の浸は沂・沭[じゅつ]、と。周に徐州無し。之を靑に兼ぬ。周の靑は卽ち禹の徐なり。卽ち徐の川は淮より大いなるは莫し。淮乂まるときは、則ち泗よりして下、凡て川爲る者知る可し。徐の浸は沂より大いなるは莫し。沂乂まるときは、則ち沭より下、凡て浸爲る者知る可し。

△蒙・羽其藝。蒙・羽、二山名。蒙山、地志在泰山郡蒙陰縣西南。今沂州費縣也。羽山、地志在東海郡祝其縣南。今海州朐山縣也。藝者、言可種藝也。
【読み】
△蒙・羽其れ藝す。蒙・羽は、二山の名。蒙山は、地志に泰山郡蒙陰縣の西南に在り、と。今の沂州費縣なり。羽山は、地志に東海郡祝其縣の南に在り、と。今の海州朐[く]山縣なり。藝とは、言うこころは、種藝す可しとなり。

△大野旣豬。大野、澤名。地志在山陽郡鉅野縣北。今濟州鉅野縣也。鉅卽大也。水蓄而復流者、謂之豬。按水經、濟水至乘氏縣分爲二。南爲菏、北爲濟。酈道元謂、一水東南流。一水東北流、入鉅野澤、則大野爲濟之所絕。其所聚也大矣。何承天曰、鉅野廣大南導洙泗、北連淸濟。徐之有濟、於是乎見。又鄆州中都西南、亦有大野陂。或皆大野之地也。
【読み】
△大野旣に豬[ちょ]す。大野は、澤の名。地志に山陽郡鉅野縣の北に在り、と。今の濟州鉅野縣なり。鉅は卽ち大なり。水蓄えて復流るる者、之を豬と謂う。水經を按ずるに、濟水は乘氏縣に至りて分かれて二つと爲す。南は菏[か]と爲り、北は濟と爲る、と。酈道元が謂う、一水は東南に流る。一水は東北に流れ、鉅野の澤に入りて、則ち大野は濟の絕ゆる所と爲る。其の聚まる所は大いなり、と。何承天が曰く、鉅野は廣大にして南は洙泗を導き、北は淸濟に連なる。徐の濟有ること、是に於て見る。又鄆州の中都の西南にも、亦大野陂有り。或は皆大野の地ならん。

△東原厎平。東原、漢之東平國。今之鄆州也。晁氏曰、東平自古多水患、數徙其城。咸平中又徙城於東南、則其下濕可知。厎平者、水患已去、而厎於平也。後人以其地之平、故謂之東平。又按東原在徐之西北、而謂之東者、以在濟東故也。東平國、在景帝亦謂濟東國云、益知大野東原所以志濟也。
【読み】
△東原平らかなるに厎[いた]る。東原は、漢の東平國。今の鄆州なり。晁氏が曰く、東平は古より水患多く、數々其の城を徙[うつ]す。咸平の中ごろ又城を東南に徙せば、則ち其の下濕なること知る可し。平らかなるに厎るとは、水患已に去りて、平らかなることを厎すなり。後人其の地の平らかなるを以て、故に之を東平と謂う。又按ずるに東原は徐の西北に在りて、之を東と謂うは、濟の東に在るを以ての故なり。東平國は、景帝に在りて亦濟東の國と謂うと云えば、益々大野の東原を濟と志[しる]す所以を知るなり。

△厥土赤埴墳。草木漸包。土黏曰埴。埴、膩也。黏泥如脂之膩也。周有摶埴之工。老氏言、埏埴以爲器。惟土性黏膩細密。故可摶可埏也。漸、進長也。如易所謂木漸。言其日進於茂而不已也。包、叢生也。如詩所謂如竹苞矣。言其叢生而積也。
【読み】
△厥の土は赤くして埴墳[うごも]てり。草木漸包す。土黏[ねば]るを埴と曰う。埴は、膩[なめ]らかなり。黏泥は脂の膩らかなるが如し。周に摶埴[たんしょく]の工有り。老氏言く、埴を埏[こ]ねて以て器に爲る、と。惟れ土の性は黏膩[ねんじ]細密。故に摶[う]つ可く埏ねる可し。漸は、進長なり。易に所謂木漸というが如し。言うこころは、其れ日に茂[さかに進んで已まざるなり。包は、叢生なり。詩に所謂竹の苞[しげ]るが如しというが如し。言うこころは、其れ叢生して積れるなり。

△厥田惟上中。厥賦中中。田第二等、賦第五等也。
【読み】
△厥の田は惟れ上の中なり。厥の賦は中の中なり。田は第二等、賦は第五等なり。

△厥貢惟土五色。羽畎夏翟、嶧陽孤桐。泗濱浮磬、淮夷蠙珠曁魚。厥篚玄纖縞。徐州之土雖赤、而五色之土、亦閒有之。故制以爲貢。周書作雒曰、諸侯受命于周、乃建大社于國中。其壝東靑土、南赤土、西白土、北驪土、中央疂以黃土。將建諸侯、鑿取其方面之土、苞以黃土、苴以白茅、以爲土封。故曰、受削土于周室。此貢土五色、意亦爲是用也。羽畎、羽山之谷也。夏翟、雉具五色。其羽中旌旄者也。染人之職、秋染夏。鄭氏曰、染夏者、染五色也。林氏曰、古之車服器用、以雉爲飾者多。不但旌旄也。曾氏曰、山雉具五色、出于羽山之畎。則其名山以羽者以此歟。嶧、山名。地志云、東海郡下邳縣西、有葛嶧山。古文以爲嶧山。下邳、今淮陽軍下邳縣也。陽者、山南也。孤桐、特生之桐。其材中琴瑟。詩曰、梧桐生矣、于彼朝陽。蓋草木之生、以向日爲貴也。泗、水名。出魯國卞縣。桃墟西北、陪尾山源有泉四、四泉倶導。因以爲名。西南過彭城、又東南過下邳入淮卞縣。今襲慶府泗水縣也。濱、水旁也。浮磬、石露水濱。若浮於水然。或曰、非也。泗濱非必水中。泗水之旁近浮者、石浮生土中、不根著者也。今下邳有石磬山。或以爲古取磬之地。曾氏曰、不謂之石者、成而後貢也。淮夷、淮之夷也。蠙、蚌之別名也。曁、及也。珠、爲服飾、魚、用祭祀。今濠・泗・楚皆貢淮白魚。亦古之遺制歟。夏翟之出于羽畎、孤桐之生於嶧陽、浮磬之出於泗濱、珠魚之出於淮夷、各有所產之地、非他處所有。故詳其地而使貢也。玄、赤黑色幣也。武成曰、篚厥玄黃。纖縞、皆繒也。禮曰、及期而大祥。素縞麻衣。中月而禫。禫而纖。記曰、有虞氏縞衣而養老。則知纖縞皆繒之名也。曾氏曰、玄赤而有黑色、以之爲袞、所以祭也。以之爲端、所以齊也。以之爲冠、以爲首服也。黑經白緯曰纖。纖也縞也、皆去凶卽吉之所服也。
【読み】
△厥の貢は惟れ土の五色なり。羽の畎[たに]は夏翟[かてき]、嶧[えき]の陽[みなみ]は孤桐なり。泗の濱は浮磬、淮夷は蠙珠[ひんしゅ]曁[およ]び魚なり。厥の篚は玄[くろ]き纖縞なり。徐州の土は赤しと雖も、而れども五色の土も、亦閒々に之れ有り。故に制して以て貢とす。周書の作雒[さくらく]に曰く、諸侯命を周に受け、乃ち大社を國中に建つ。其の壝[い]は東は靑土、南は赤土、西は白土、北は驪土、中央は疂ぬるに黃土を以てす。將に諸侯を建てんとすれば、鑿ちて其の方面の土を取りて、苞むに黃土を以てし、苴[に白茅を以てし、以て土封を爲る。故に曰く、削土を周室に受く、と。此れ土の五色を貢する、意うに亦是の用を爲さんとなり。羽の畎は、羽山の谷なり。夏翟は、雉は五色を具う。其の羽は旌旄[せいぼう]に中る者なり。染人の職、秋に夏を染む。鄭氏が曰く、夏を染むとは、五色に染むるなり、と。林氏が曰く、古の車服器用、雉を以て飾りとする者多し。但に旌旄のみならず、と。曾氏が曰く、山雉は五色を具えて、羽山の畎に出づ。則ち其の山を名づくるに羽を以てする者は此を以てか、と。嶧は、山の名。地志に云う、東海郡下邳縣の西に、葛嶧山有り、と。古文に以爲えらく、嶧山、と。下邳は、今の淮陽軍下邳縣なり。陽は、山の南なり。孤桐は、特生の桐。其の材は琴瑟に中る。詩に曰く、梧桐生いたり、彼の朝陽に、と。蓋し草木の生ずるは、日に向かうを以て貴しとす。泗は、水の名。魯國卞[べん]縣より出づ。桃墟の西北、陪尾山の源に泉四つ有り、四泉倶に導く。因りて以て名とす。西南して彭城を過ぎ、又東南して下邳を過ぎて淮卞縣に入る。今の襲慶府泗水縣なり。濱は、水の旁[ほとり]なり。浮磬は、石の水濱に露わる。水に浮くが若く然り。或ひと曰く、非なり。泗濱は必ずしも水中に非ず。泗水の旁近に浮くは、石浮きて土中に生じて、根著せざる者なり、と。今の下邳に石磬山有り。或ひと以爲えらく、古磬を取るの地、と。曾氏が曰く、之を石と謂わざるは、を成して而して後に貢するなり、と。淮夷は、淮の夷なり。蠙は、蚌[ほう]の別名なり。曁は、及ぶなり。珠は、服の飾りと爲し、魚は、祭祀に用ゆ。今の濠・泗・楚は皆淮の白魚を貢す。亦古の遺制か。夏翟の羽の畎より出で、孤桐の嶧の陽に生じ、浮磬の泗濱より出で、珠魚の淮夷より出づる、各々產する所の地有り、他處の有する所に非ず。故に其の地を詳らかにして貢せしむ。玄は、赤黑の色の幣なり。武成に曰く、厥の玄黃を篚にす、と。纖縞は、皆繒[きぬ]なり。禮に曰く、期に及んで大祥す。素縞麻衣す。中月にして禫[たん]す。禫して纖す、と。記に曰く、有虞氏は縞衣して老を養う、と。則ち知る、纖縞は皆繒の名なることを。曾氏が曰く、玄赤にして黑色有り、之を以て袞に爲るは、祭る所以なり。之を以て端に爲るは、齊する所以なり。之を以て冠に爲るは、以て首服とするなり、と。黑き經白き緯を纖と曰う。纖や縞や、皆凶を去りて吉に卽くの服する所なり。

△浮于淮・泗、達于河。許愼曰、汳水、受陳留浚儀陰溝、至豪爲灉水、東入于泗、則淮泗之可以達于河者、以灉至于泗也。許愼又曰、泗受泲水東入淮。蓋泗水至大野而合泲。然則泗之上源自泲亦可以通河也。
【読み】
△淮・泗に浮かんで、河に達す。許愼が曰く、汳水[べんすい]、陳留浚儀の陰溝を受けて、豪に至りて灉水[ようすい]と爲り、東して泗に入るときは、則ち淮泗の以て河に達す可き者、灉を以て泗に至る、と。許愼又曰く、泗は泲水[せいすい]を受けて東して淮に入る。蓋し泗水は大野に至りて泲に合う。然らば則ち泗の上源は泲より亦以て河に通ず可し、と。

△淮・海惟揚州。揚州之域、北至淮、東南至于海。
【読み】
△淮・海は惟れ揚州なり。揚州の域は、北は淮に至り、東南は海に至る。

彭蠡旣豬。彭蠡、地志在豫章郡彭澤縣東、合江西江東諸水。跨豫章・饒州・南康軍三州之地。所謂鄱陽湖者是也。詳見導水。
【読み】
彭蠡[ほうれい]旣に豬す。彭蠡は、地志に豫章郡彭澤縣の東に在り、江西江東の諸水に合う、と。豫章・饒州・南康軍の三州の地に跨る。所謂鄱陽[はよう]湖なる者是れなり。詳らかに導水に見えたり。

△陽鳥攸居。陽鳥、隨陽之鳥。謂鴈也。今惟彭蠡洲渚之閒、千百爲羣。記陽鳥所居、猶夏小正記鴈北郷也。言澤水旣豬、洲渚旣平、而禽鳥亦得居止、而遂其性也。
【読み】
△陽鳥の居る攸なり。陽鳥は、陽に隨うの鳥。鴈を謂うなり。今惟れ彭蠡の洲渚の閒、千百羣を爲す。陽鳥の居る所と記すは、猶夏小正に鴈北に郷[む]かうと記すがごとし。言うこころは、澤水旣に豬し、洲渚旣に平らいで、禽鳥も亦居止を得て、其の性を遂ぐるなり。

△三江旣入。唐仲初吳都賦註、松江下七十里、分流東北入海者爲婁江、東南流者爲東江、倂松江爲三江。其地今亦名三江口。吳越春秋所謂范蠡乘舟出三江之口者是也。○又按蘇氏謂岷山之江爲中江、嶓冢之江爲北江、豫章之江爲南江。卽導水所謂東爲北江、東爲中江者。旣有中北二江、則豫章之江、爲南江可知。今按此爲三江、若可依據。然江漢會於漢陽、合流數百里、至湖口而後與豫章江會、又合流千餘里而後入海。不復可指爲三矣。蘇氏知其說不通、遂有味別之說。禹之治水、本爲民去害。豈如陸羽輩辨味烹茶、爲口腹計耶。亦可見其說之窮矣。以其說易以惑人、故幷及之。或曰、江漢之水、揚州巨浸、何以不書。曰、禹貢書法費疎鑿者、雖小必記。無施勞者、雖大亦略。江漢荆州而下、安於故道。無俟濬治。故在不書。況朝宗于海。荆州固備言之。是亦可以互見矣。此正禹貢之書法也。
【読み】
△三江旣に入りぬ。唐仲初が吳都の賦の註に、松江の下七十里、東北に分かれ流れて海に入る者を婁江[ろうこう]とし、東南に流るる者を東江とし、松江を倂せて三江とす、と。其の地は今亦三江口と名づく。吳越春秋に所謂范蠡舟に乘りて三江の口を出づる者是れなり。○又按ずるに蘇氏が謂ゆる岷山[びんざん]の江を中江とし、嶓冢[はちょう]の江を北江とし、豫章の江を南江とす、と。卽ち導水に所謂東を北江とし、東を中江とする者なり。旣に中北の二江有るときは、則ち豫章の江は、南江爲ること知る可し。今按ずるに此を三江とすること、依り據る可きが若し。然れども江漢漢陽に會し、合流すること數百里、湖口に至りて而して後に豫章江と會し、又合流すること千餘里にして而して後に海に入る。復指して三つとす可からず。蘇氏其の說の通ぜざるを知りて、遂に味別の說有り。禹の水を治むるは、本民の爲に害を去る。豈陸羽が輩の味を辨じ茶を烹る、口腹の爲の計の如くならんや。亦其の說の窮まることを見る可し。其の說以て人を惑わし易きを以て、故に幷せて之に及ぶ。或ひと曰く、江漢の水、揚州の巨浸、何を以てか書さざる、と。曰く、禹貢の書法疎鑿を費す者は、小なりと雖も必ず記す。勞を施すこと無き者は、大なりと雖も亦略す。江漢荆州よりして下は、故道を安んず。濬治[しゅんち]を俟つこと無し。故に書さざるに在り。況んや海に朝宗するをや。荆州は固に備に之を言う。是れ亦以て互いに見る可し。此れ正に禹貢の書法なり。

△震澤厎定。震澤、太湖也。周職方揚州藪曰具區。地志在吳縣西南五十里。今蘇州吳縣也。曾氏曰、震、如三川震之震。若今湖翻是也。具區之水、多震而難定。故謂之震澤。厎定者、言厎於定而不震蕩也。
【読み】
△震澤定まれるに厎る。震澤は、太湖なり。周の職方に揚州の藪を具區と曰う、と。地志に吳縣の西南五十里に在り、と。今の蘇州吳縣なり。曾氏が曰く、震は、三川震うの震の如し。今の湖翻の若き是れなり、と。具區の水、多く震いて定まり難し。故に之を震澤と謂う。定まれるに厎るとは、言うこころは、定まれるに厎りて震蕩せざるなり。

△篠簜旣敷。厥草惟夭。厥木惟喬。厥土惟塗泥。篠、箭竹。簜、大竹。郭璞曰、竹闊節曰簜。敷、布也。水去竹已布生也。少長曰夭。喬、高也。塗泥、水泉濕也。下地多水、其土淖。
【読み】
△篠簜[しょうとう]旣に敷く。厥の草は惟れ夭[わか]し。厥の木は惟れ喬[たか]し。厥の土は惟れ塗泥なり。篠は、箭竹なり。簜は、大竹なり。郭璞が曰く、竹の闊節なるを簜と曰う、と。敷は、布くなり。水去りて竹已に布生す。少しく長きを夭と曰う。喬は、高きなり。塗泥は、水泉の濕[うるお]えるなり。下地水多くして、其の土は淖[どう]なり。

△厥田惟下下。厥賦下上上錯。田第九等、賦第七等、雜出第六等也。言下上上錯者、以本設賦九等、分爲三品。下上與中下異品。故變文言下上上錯也。
【読み】
△厥の田は惟れ下の下なり。厥の賦は下の上にして上も錯[まじ]われり。田は第九等、賦は第七等にして、第六等を雜え出だすなり。言うこころは、下の上にして上も錯わるとは、本賦を設くること九等なるを以て、分かちて三品とす。下の上と中の下とは品を異なり。故に文を變じて下の上にして上も錯わると言うなり。

△厥貢惟金三品・瑤琨・篠簜・齒革・羽毛・惟木。島夷卉服。厥篚織貝、厥包橘柚、錫貢。三品、金・銀・銅也。瑤琨、玉石名。詩曰、何以舟之、維玉及瑤。琨、說文云、石之美似玉者。取之可以爲禮器。篠之材、中於矢之笴、簜之材、中於樂之管。簜亦可爲符節。周官、掌節有英簜、象有齒、犀兕有革、鳥有羽、獸有毛。木、楩梓豫章之屬。齒革可以成車甲。羽毛可以爲旌旄。木可以備棟宇器械之用也。島夷、東南海島之夷。卉、草也。葛越木綿之屬。織貝、錦名。織爲貝文。詩曰、貝錦是也。今南夷木綿之精好者、亦謂之吉貝。海島之夷、以卉服來貢。而織貝之精者、則入篚焉。包、裹也。小曰橘、大曰柚。錫者、必待錫命而後貢。非歲貢之常也。張氏曰、必錫命乃貢者、供祭祀燕賓客、則詔之。口腹之欲、則難於出令也。
【読み】
△厥の貢は惟れ金三品・瑤琨[ようこん]・篠簜[しょうとう]・齒革・羽毛・惟れ木なり。島夷卉服す。厥の篚は織貝、厥の包は橘柚、錫わりて貢す。三品は、金・銀・銅なり。瑤琨は、玉石の名。詩に曰く、何を以て之を舟[お]びん、維れ玉及び瑤、と。琨は、說文に云う、石の美にして玉に似る者。之を取りて以て禮器に爲る可し、と。篠の材は、矢の笴[やがら]に中り、簜の材は、樂の管に中る。簜も亦符節に爲る可し。周官に、掌節に英簜有り、象に齒有り、犀兕[じ]に革有り、鳥に羽有り、獸に毛有り、と。木は、楩梓豫章の屬。齒革は以て車甲に成す可し。羽毛は以て旌旄に爲る可し。木は以て棟宇器械の用に備う可し。島夷は、東南海島の夷なり。卉は、草なり。葛越木綿の屬なり。織貝は、錦の名。織りて貝の文を爲る。詩に曰く、貝錦とは是れなり。今南夷木綿の精好なる者も、亦之を吉貝と謂う。海島の夷、卉服を以て來貢す。而して織貝の精しき者は、則ち篚に入るる。包は、裹[つつ]むなり。小なるを橘と曰い、大なるを柚と曰う。錫とは、必ず錫命を待ちて而して後に貢す。歲貢の常に非ざるなり。張氏が曰く、必ず命を錫いて乃ち貢する者は、祭祀に供し賓客を燕するときは、則ち之を詔[まね]く。口腹の欲には、則ち令を出だし難し、と。

△沿于江・海、達于淮・泗。順流而下曰沿。沿江入海。自海而入淮・泗、不言達于河者、因於徐也。禹時江・淮未通。故沿於海、至吳始開邦溝。隋人廣之、而江・淮舟船始通也。孟子言、排淮・泗而注之江、記者之誤也。
【読み】
△江・海に沿[したが]いて、淮・泗に達す。流れに順いて下るを沿と曰う。江に沿いて海に入る。海よりして淮・泗に入るを、河に達すと言わざるは、徐に因りてなり。禹の時は江・淮未だ通ぜず。故に海に沿いて、吳に至りて始めて邦溝を開く。隋人之を廣めて、江・淮の舟船始めて通ず。孟子言く、淮・泗を排[ひら]いて之を江に注ぐとは、記者の誤りならん。

△荆及衡陽、惟荆州。荆州之域、北距南條荆山、南盡衡山之陽。荆衡各見導山。唐孔氏曰、荆州以衡山之陽爲至者、蓋南方惟衡山爲大、以衡陽言之。見其地不止此山、而猶包其南也。
【読み】
△荆及び衡の陽[みなみ]は、惟れ荆州なり。荆州の域は、北は南條荆山に距[いた]り、南は衡山の陽を盡くす。荆衡は各々導山に見えたり。唐の孔氏が曰く、荆州を衡山の陽を以て至るとする者は、蓋し南方は惟れ衡山を大なりとし、衡の陽を以て之を言う。其の地は此の山に止まらざることを見して、猶其の南を包ぬ。

△江・漢朝宗于海。江・漢見導水。春見曰朝、夏見曰宗。朝宗、諸侯見天子之名也。江漢合流于荆、去海尙遠。然水道已安、而無有壅塞橫決之患。雖未至海、而其勢已奔趨於海。猶諸侯之朝宗于王也。
【読み】
△江・漢は海に朝宗す。江・漢は導水に見えたり。春に見ゆるを朝と曰い、夏見ゆるを宗と曰う。朝宗は、諸侯天子に見ゆるの名なり。江漢は荆に合流して、海を去ること尙遠し。然れども水道已に安んじて、壅塞橫決の患え有ること無し。未だ海に至らざると雖も、而して其の勢い已に奔りて海に趨る。猶諸侯の王に朝宗するがごとし。

△九江孔殷。九江、卽今之洞庭也。水經言、九江在長沙下雋西北。楚地記曰、巴陵瀟湘之淵、在九江之閒。今岳州巴陵縣、卽楚之巴陵、漢之下雋也。洞庭正在其西北、則洞庭之爲九江審矣。今沅水・漸水・元水・辰水・敍水・酉水・澧水・資水・湘水、皆合於洞庭。意以是名九江也。孔、甚。殷、正也。九江水道、甚得其正也。○按漢志、九江在廬江郡之尋陽縣。尋陽記九江之名、一曰烏江、二曰蜯江、三曰烏白江、四曰嘉靡江、五曰畎江、六曰源江、七曰廩江、八曰提江、九曰箘江。今詳漢九江郡之尋陽、乃禹貢・揚州之境。而唐孔氏又以爲、九江之名、起於近代。未足爲據。且九江派別取之耶。亦必首尾短長、大略均布、然後可目之爲九。然其一水之閒、當有一洲、九江之閒、沙水相閒、乃爲十有七道。而今尋陽之地、將無所容。況沙洲出沒、其勢不常。果可以爲地理之定名乎。設使派別爲九、則當曰九江旣道、不應曰孔殷。於導江當曰播九江、不應曰過九江。反復參攷、則九江非尋陽明甚。本朝胡氏以洞庭爲九江者得之。曾氏亦謂、導江曰過九江至于東陵。東陵、今之巴陵。今巴陵之上、卽洞庭也。因九水所合、遂名九江。故下文導水曰過九江。經之例、大水合小水謂之過、則洞庭之爲九江、益以明矣。
【読み】
△九江孔だ殷[ただ]し。九江は、卽ち今の洞庭なり。水經に言う、九江は長沙下雋[かすい]の西北に在り、と。楚地記に曰く、巴陵瀟湘[しょうしょう]の淵は、九江の閒に在り、と。今の岳州巴陵縣は、卽ち楚の巴陵、漢の下雋なり。洞庭は正に其の西北に在れば、則ち洞庭の九江爲ること審[あき]らかなり。今の沅水・漸水・元水・辰水・敍水・酉水[ゆうすい]・澧水[れいすい]・資水・湘水は、皆洞庭に合う。意うに是を以て九江と名づくるならん。孔は、甚だ。殷は、正しきなり。九江の水道、甚だ其の正しきを得るなり。○漢志を按ずるに、九江は廬江郡の尋陽縣に在り、と。尋陽記に九江の名は、一に曰く烏江、二に曰く蜯江[ぼうこう]、三に曰く烏白江、四に曰く嘉靡江、五に曰く畎江、六に曰く源江、七に曰く廩江、八に曰く提江、九に曰く箘江[きんこう]、と。今漢の九江郡の尋陽を詳らかにするに、乃ち禹貢・揚州の境なり。而るに唐の孔氏又以爲えらく、九江の名は、近代に起こる、と。未だ據ると爲すに足らず。且つ九江の派別に之を取るか。亦必ず首尾短長、大略均布にして、然して後に之を目づけて九とす可し。然も其の一水の閒、當に一洲有るべく、九江の閒、沙水相閒[まじ]わりて、乃ち十有七道とす。而るに今尋陽の地は、將に容るる所無かるべし。況んや沙洲の出沒、其の勢い常ならず。果たして以て地理の定名とす可けんや。設使[たと]い派別れて九と爲らば、則ち當に九江旣に道なると曰うべく、應に孔だ殷しと曰うべからず。江を導くに於て當に九江を播くと曰うべく、應に九江を過ぐと曰うべからず。反復參攷すれば、則ち九江は尋陽に非ざること明らかなること甚だし。本朝胡氏洞庭を以て九江とする者之を得たり。曾氏も亦謂う、江を導くに九江を過ぎて東陵に至ると曰う。東陵は、今の巴陵。今の巴陵の上は、卽ち洞庭なり。九水の合う所に因りて、遂に九江と名づく。故に下の文に水を導くに九江を過ぐと曰う、と。經の例、大水の小水に合うを之を過と謂わば、則ち洞庭の九江爲ること、益々以て明らかなり。

△沱・潛旣道。爾雅曰、自江出爲沱、自漢出爲潛。凡水之出於江・漢者、皆有此名。此則荆州江・漢之出者也。今按南郡枝江縣有沱水。然其流入江而非出於江也。華容縣有夏水。首出于江、尾入于沔。亦謂之沱。若潛水、則未有見也。
【読み】
△沱[た]・潛旣に道なる。爾雅に曰く、江より出づるを沱とし、漢より出づるを潛とす、と。凡そ水の江・漢より出づる者は、皆此の名有り。此れ則ち荆州江・漢の出づる者なり。今按ずるに南郡枝江縣に沱水有り。然れども其の流れは江に入りて江より出づるに非ず。華容縣に夏水有り。首は江より出でて、尾は沔[べん]に入る。亦之を沱と謂う。潛水の若きは、則ち未だ見ること有らず。

△雲土夢作乂。雲・夢、澤名。周官職方、荆州其澤藪曰雲夢。方八九百里、跨江南北。華容・枝江・枝江・江夏・安陸、皆其地也。左傳楚子濟江、入于雲中。又楚子以鄭伯田于江南之夢。合而言之則爲一。別而言之則二澤也。雲土者、雲之地土見而已。夢作乂者、夢之地已可耕治也。蓋雲夢之澤、地勢有高卑。故水落有先後、人工有早晩也。
【読み】
△雲土みえ夢乂[おさ]むることを作すべし。雲・夢は、澤の名。周官の職方に、荆州の其の澤藪を雲夢と曰う、と。方八九百里、江の南北に跨る。華容・枝江・枝江・江夏・安陸は、皆其の地なり。左傳に楚子江を濟[わた]りて、雲中に入る、と。又楚子鄭伯を以て江南の夢に田す、と。合わせて之を言わば則ち一爲り。別けて之を言わば則ち二澤なり。雲土とは、雲の地は土見るのみ。夢乂むることを作すとは、夢の地は已に耕治す可しとなり。蓋し雲夢の澤は、地勢高卑有り。故に水落ちて先後有り、人工に早晩有り。

△厥土惟塗泥。厥田惟下中。厥賦上下。荆州之土、與揚州同。故田比揚只加一等、而賦爲第三等者、地闊而人工修也。
【読み】
△厥の土は惟れ塗泥なり。厥の田は惟れ下の中なり。厥の賦は上の下なり。荆州の土は、揚州と同じ。故に田揚に比すれば只一等を加えて、賦第三等とする者は、地闊[ひろ]くして人工修むればなり。

△厥貢羽毛・齒革、惟金三品、杶榦・栝柏・礪砥・砮丹、惟箘簵・楛。三邦厎貢厥名。包匭菁茅、厥篚玄纁璣組。九江納錫大龜。荆之貢、與揚州大抵多同。然荆先言羽毛者、漢孔氏所謂善者爲先也。按職方氏、揚州其利金錫、荆州其利丹銀・齒革。則荆・揚所產、不無優劣矣。杶・栝・柏、三木名也。杶木似樗、而可爲弓榦。栝木、柏葉松身。礪砥、皆磨石。砥以細密爲名。礪以麤糲爲稱。砮者、中矢鏃之用。肅愼氏貢石砮者是也。丹、丹砂也。箘簵、竹名。楛、木名。皆可以爲矢。董安干之治晉陽也、公宮之垣、皆以荻蒿・苫楚廩之。其高丈餘。趙襄子發而試之。其堅則箘簵不能過也。則箘簵蓋竹之堅者、其材中矢之笴。楛、肅愼氏貢楛矢者是也。三邦、未詳其地。厎、致也。致貢箘簵楛之有名者也。匭、匣也。菁茅、有刺而三脊、所以供祭祀縮酒之用。旣包而又匣之。所以示敬也。齊桓公責楚貢包茅不入、王祭不供、無以縮酒。又管子云、江・淮之閒、一茅而三脊、名曰菁茅。菁茅、一物也。孔氏謂菁以爲葅者非是。今辰州麻陽縣苞茅山出。苞茅、有刺而三脊。纁、周禮染人夏纁玄纁。絳色幣也。璣、珠不圓者。組、綬類。大龜、尺有二寸、所謂國之守龜。非可常得。故不爲常貢。若偶得之、則使之納錫於上。謂之納錫者、下與上之辭。重其事也。
【読み】
△厥の貢は羽毛・齒革、惟れ金の三品、杶[ちゅん]榦・栝[かつ]柏・礪砥・砮[ど]丹、惟れ箘簵[きんろ]・楛[こ]なり。三邦厎[いた]し貢す厥の名あり。包は匭[はこ]にせる菁茅、厥の篚は玄纁[げんくん]の璣組[きそ]なり。九江は大龜を納れ錫わしむ。荆の貢は、揚州と大抵多く同じ。然れども荆先ず羽毛を言うは、漢の孔氏が所謂善き者を先とするなり。按ずるに職方氏に、揚州の其の利は金錫、荆州の其の利は丹銀・齒革、と。則ち荆・揚の產する所、優劣無からず。杶・栝・柏は、三木の名なり。杶木は樗[ちょ]に似て、弓榦にす可し。栝木は、柏の葉松の身なり。礪砥は、皆磨石。砥は細密を以て名とす。礪は麤糲を以て稱とす。砮は、矢鏃の用に中る。肅愼氏が石砮を貢すという者是れなり。丹は、丹砂なり。箘簵は、竹の名。楛は、木の名。皆以て矢に爲る可し。董安干が晉陽を治むるとき、公宮の垣は、皆荻蒿・苫楚を以て之を廩にす。其の高さ丈餘なり。趙襄子發して之を試む。其の堅きこと則ち箘簵も過ぐること能わず。則ち箘簵は蓋し竹の堅き者にて、其の材は矢の笴[やがら]に中る。楛は、肅愼氏楛矢を貢すという者是れなり。三邦は、未だ其の地を詳らかにせず。厎[し]は、致すなり。箘簵楛の名有る者を致し貢すなり。匭[き]は、匣[こう]なり。菁茅は、刺有りて三脊、祭祀に供し酒を縮[こ]す所以の用なり。旣に包んで又之を匣にす。敬を示す所以なり。齊の桓公楚の貢に包茅入れずして、王の祭に供さず、以て酒を縮すこと無きを責む。又管子云う、江・淮の閒、一茅にして三脊なる、名づけて菁茅と曰う、と。菁茅は、一物なり。孔氏が謂ゆる菁は以て葅[しょ]に爲るとは是に非ず。今の辰州麻陽縣の苞茅山に出づ。苞茅は、刺有りて三脊なり。纁は、周禮の染人に夏纁玄纁あり。絳[あか]色の幣なり。璣は、珠の圓からざる者なり。組は、綬の類。大龜は、尺有二寸、所謂國の守龜なり。常に得可きに非ず。故に常の貢とせず。若し偶々之を得るときは、則ち之をして上に納れ錫わしむ。之を納錫すと謂うは、下の上に與うるの辭。其の事を重んじてなり。

△浮于江・沱・潛・漢、逾于洛、至于南河。江・沱・潛・漢、其水道之出入不可詳、而大勢則自江・沱而入潛・漢也。逾、越也。漢與洛不通。故舍舟而陸以達于洛、自洛而至于南河也。程氏曰、不徑浮江・漢、兼用沱・潛者、隨其貢物所出之便、或由經流、或循枝派、期於便事而已。
【読み】
△江・沱・潛・漢に浮かんで、洛を逾えて、南の河に至る。江・沱・潛・漢は、其の水道の出入は詳らかにす可からずして、大勢は則ち江・沱よりして潛・漢に入るなり。逾は、越ゆるなり。漢と洛とは通ぜず。故に舟を舍[お]りて陸にして以て洛に達し、洛よりして南の河に至るなり。程氏が曰く、徑に江・漢に浮かばずして、沱・潛を兼ね用ゆる者は、其の貢物の出づる所の便に隨い、或は經流に由り、或は枝派に循いて、事に便なるを期するのみ、と。

△荆・河惟豫州。豫州之域、西南至南條荆山、北距大河。
【読み】
△荆・河は惟れ豫州なり。豫州の域、西南は南條の荆山に至り、北は大河に距[いた]る。

△伊・洛・瀍・澗、旣入于河。伊水、山海經曰、熊耳之山、伊水出焉、東北至洛陽縣南、北入于洛。郭璞云、熊耳在上洛縣南。今商州上洛縣也。地志言、伊水出弘農盧氏之熊耳者非是。洛水、地志云、出弘農郡上洛縣冢領山。水經謂之讙舉山。今商州洛南縣冢領山也。至鞏縣入河。今河南府鞏縣也。瀍水、地志云、出河南郡穀城縣朁亭北。今河南府河南縣西北、有古穀城縣、其北山實瀍水所出也。至偃師縣入洛。今河南府偃師縣也。澗水、地志云、出弘農郡新安縣、東南入于洛。新安在今河南府新安・澠池之閒、今澠池縣東二十三里新安城是也。城東北有白石山。卽澗水所出。酈道元云、世謂之廣陽山。然則澗水出今之澠池、至新安入洛也。伊・瀍・澗水入于洛、而洛水入于河。此言伊・洛・瀍・澗、入于河、若四水不相合而各入河者。猶漢入江、江入海。而荆州言江・漢朝宗于海意同。蓋四水竝流、小大相敵故也。詳見下文。
【読み】
△伊・洛・瀍[てん]・澗、旣に河に入る。伊水は、山海經に曰く、熊耳の山、伊水出でて、東北して洛陽縣の南に至り、北して洛に入る、と。郭璞が云う、熊耳は上洛縣の南に在り、と。今の商州上洛縣なり。地志に言う、伊水は弘農盧氏の熊耳より出づる者とは是に非ず。洛水は、地志に云う、弘農郡上洛縣の冢領山より出づ、と。水經に之を讙[かん]舉山と謂う。今の商州洛南縣の冢領山なり。鞏[きょう]縣に至りて河に入る。今の河南府鞏縣なり。瀍水は、地志に云う、河南郡穀城縣朁亭の北より出づ、と。今の河南府河南縣の西北に、古穀城縣有り、其の北山は實に瀍水の出づる所なり。偃師縣に至りて洛に入る。今の河南府偃師縣なり。澗水は、地志に云う、弘農郡新安縣より出でて、東南して洛に入る、と。新安は今の河南府新安・澠池[べんち]の閒に在り、今の澠池縣の東二十三里の新安城是れなり。城の東北に白石山有り。卽ち澗水の出づる所なり。酈道元が云う、世に之を廣陽山と謂う、と。然らば則ち澗水は今の澠池より出でて、新安に至りて洛に入るなり。伊・瀍・澗水は洛に入りて、洛水は河に入る。此に伊・洛・瀍・澗、河に入ると言うは、四水相合わずして各々河に入る者の若し。猶漢は江に入り、江は海に入る。而るに荆州に江・漢海に朝宗すと言うと意同じ。蓋し四水の竝び流るる、小大相敵する故なり。詳らかに下の文に見えたり。

△滎・波旣豬。滎・波、二水名。濟水自今孟州溫縣入河。潛行絕河、南溢爲滎。在今鄭州滎澤縣西五里、敖倉東南。敖倉者、古之敖山也。按今濟水但入河、不復過河之南滎。瀆水受河。水有石門、謂之滎口石門也。鄭康成謂、滎今塞爲平地。滎陽民猶謂、其處爲滎澤。酈道元曰、禹塞淫水。於滎陽下引河東南、以通淮・泗・濟水、分河東南流。漢明帝使王景卽滎水故瀆、東注浚儀。謂之浚儀渠。漢志謂、滎陽縣有狼蕩渠。首受濟者是也。南曰狼蕩、北曰浚儀、其實一也。波水、周職方、豫州其川滎・雒、其浸波・溠。爾雅云、水自洛出爲波。山海經曰、婁・涿之山、波水出其陰北、流注于穀。二說不同。未詳孰是。孔氏以滎・波爲一水者非也。
【読み】
△滎[けい]・波旣に豬す。滎・波は、二水の名。濟水は今の孟州溫縣より河に入る。潛行して河を絕ちて、南に溢れて滎と爲る。今の鄭州滎澤縣の西五里に在り、敖倉の東南なり。敖倉は、古の敖山なり。按ずるに今の濟水は但河に入りて、復河の南の滎を過ぎず。瀆水は河を受く。水に石門有り、之を滎口の石門と謂うなり。鄭康成が謂う、滎は今塞がりて平地と爲る。滎陽の民猶謂う、其の處は滎澤と爲る、と。酈道元が曰く、禹淫水を塞ぐ。滎陽の下[ほとり]に於て河の東南を引いて、以て淮・泗・濟水を通じ、河の東南の流れを分かつ、と。漢の明帝王景をして滎水の故瀆に卽いて、東し浚儀に注がしむ。之を浚儀渠と謂う。漢志に謂う、滎陽縣に狼蕩渠有り、と。首め濟を受くる者是れなり。南を狼蕩と曰い、北を浚儀と曰い、其の實は一なり。波水は、周の職方に、豫州其の川は滎・雒、其の浸は波・溠、と。爾雅に云う、水洛より出づるを波とす、と。山海經に曰く、婁・涿[たく]の山、波水其の陰北より出でて、穀に流れ注ぐ、と。二說同じからず。未だ孰れか是なるか詳らかならず。孔氏の滎・波を以て一水とする者は非なり。

△導菏澤、被孟豬。菏澤、地志在濟陰郡定陶縣東。今興仁府濟陰縣南三里、其地有菏山。故名其澤爲菏澤也。蓋濟水所經。水經謂南濟東過寃句縣南、又東過定陶縣南、又東北菏水東出焉是也。被、及也。孟豬、爾雅作孟諸。地志在梁國睢陽縣東北。今南京虞城縣西北孟諸澤是也。曾氏曰、被、覆也。菏水衍溢、導其餘波、入于孟豬。不常入也。故曰被。
【読み】
△菏[か]澤を導きて、孟豬に被[およ]べり。菏澤は、地志に濟陰郡定陶縣の東に在り、と。今の興仁府濟陰縣の南三里、其の地に菏山有り。故に其の澤を名づけて菏澤とするなり。蓋し濟水の經る所なり。水經に謂ゆる南濟東し寃句縣の南を過ぎ、又東し定陶縣の南を過ぎ、又東北して菏水の東に出づるとは是れなり。被は、及ぶなり。孟豬は、爾雅に孟諸に作る。地志に梁國睢陽[すいよう]縣の東北に在り、と。今の南京虞城縣の西北の孟諸澤是れなり。曾氏が曰く、被は、覆うなり。菏水衍溢し、其の餘波を導いて、孟豬に入る。常に入るにあらず。故に被と曰う、と。

△厥土惟壤。下土墳壚。土不言色者、其色雜也。壚、疎也。顏氏曰、玄而疎者、謂之壚。其土有高下之不同。故別言之。
【読み】
△厥の土は惟れ壤なり。下土は墳[うごも]ち壚[あら]し。土に色を言わざるは、其の色雜ればなり。壚[ろ]は、疎きなり。顏氏が曰く、玄くして疎き者、之を壚と謂う、と。其の土に高下の同じからざる有り。故に別に之を言う。

△厥田惟中上。厥賦錯上中。田第四等、賦第二等、雜出第一等也。
【読み】
△厥の田は惟れ中の上なり。厥の賦は錯[まじ]わりて上の中なり。田第四等、賦第二等なるは、第一等を雜え出だせばなり。

△厥貢漆枲・絺紵。厥篚纖纊。錫貢磬錯。林氏曰、周官載師、漆林之征、二十有五、周以爲征。而此乃貢者、蓋豫州在周爲畿内。故載師掌其征而不制貢。禹時豫在畿外。故有貢也。推此義、則冀不言貢者可知。顏師古曰、織紵以爲布及練。然經但言貢枲與紵。成布與未成布、不可詳也。纊、細綿也。磬錯、治磬之錯也。非所常用之物。故非常貢。必待錫命而後納也。與揚州橘柚同。然揚州先言橘柚、而此先言錫貢者、橘柚言包、則於厥篚之文無嫌。故言錫貢在後。磬錯、則與厥篚之文嫌於相屬。故言錫貢在先。蓋立言之法也。
【読み】
△厥の貢は漆枲[し]・絺紵[ちちょ]なり。厥の篚は纖纊なり。錫わりて貢する磬錯あり。林氏が曰く、周官の載師に、漆林の征、二十有五、周以て征とす、と。而るに此には乃ち貢するは、蓋し豫州は周に在りて畿内爲り。故に載師其の征を掌りて貢を制せず。禹の時に豫は畿外に在り。故に貢有るなり、と。此の義を推せば、則ち冀貢を言わざること知る可し。顏師古が曰く、紵を織りて以て布及び練を爲る、と。然れども經に但枲と紵とを貢すと言う。布を成すと未だ布を成さざるとは、詳らかにす可からず。纊は、細綿なり。磬錯は、磬を治むるの錯なり。常に用ゆる所の物に非ず。故に常の貢に非ず。必ず錫命を待ちて而して後に納むるなり。揚州の橘柚と同じ。然るに揚州は先に橘柚を言いて、此に先に錫貢を言うは、橘柚包を言うときは、則ち厥の篚の文に於て嫌無し。故に錫貢を言うこと後に在り。磬錯は、則ち厥の篚の文と相屬[つら]ぬるに嫌あり。故に錫貢を言うこと先に在り。蓋し立言の法ならん。

△浮于洛、達于河。豫州去帝都最近。豫之東境、徑自入河。豫之西境、則浮于洛、而後至河也。
【読み】
△洛に浮かんで、河に達す。豫州は帝都を去ること最も近し。豫の東境は、徑自ずから河に入る。豫の西境は、則ち洛に浮かんで、而して後に河に至るなり。

△華陽・黑水惟梁州。梁州之境、東距華山之南、西據黑水。華山、卽大華。見導山。黑水見導水。
【読み】
△華の陽[みなみ]・黑水は惟れ梁州なり。梁州の境は、東は華山の南に距[いた]り、西は黑水に據る。華山は、卽ち大華なり。導山に見えたり。黑水は導水に見えたり。

△岷・嶓旣藝。岷・嶓、二山名。岷山、地志在蜀郡湔氐道西徼外。在今茂州汶山縣、江水所出也。晁氏曰、蜀以山近江源者、通爲岷山、連峯接岫、重疊險阻、不詳遠近。靑城・天彭諸山之所環遶、皆古之岷山。靑城乃其第一峯也。嶓冢山、地志云、在隴西郡氐道縣。漾水所出。又云、在西縣。今興元府西縣三泉縣也。蓋嶓冢一山、跨于兩縣云。川原旣滌、水去不滯而無泛溢之患。其山已可種藝也。
【読み】
△岷[びん]・嶓[は]旣に藝す。岷・嶓は、二山の名。岷山は、地志に蜀郡湔氐道[せんていどう]の西徼[せいきょう]の外に在り、と。今の茂州汶山縣に在り、江水の出づる所なり。晁氏が曰く、蜀は山の江源に近き者を以て、通じて岷山とし、連峯接岫[しゅう]、重疊險阻にして、遠近を詳らかにせず。靑城・天彭諸山の環り遶[めぐ]る所は、皆古の岷山なり。靑城は乃ち其の第一峯なり。嶓冢山は、地志に云う、隴西郡氐道縣に在り、と。漾水[ようすい]の出づる所なり。又云う、西縣に在り、と。今の興元府西縣の三泉縣なり。蓋し嶓冢の一山は、兩縣に跨ると云う。川原旣に滌[すす]ぎ、水去りて滯らずして泛溢の患え無し。其の山は已に種藝す可きなり。

△沱・潛旣道。此江・漢別流之在梁州者。沱水、地志蜀郡郫縣、江・沱在東、西入大江郫縣。今成都府郫縣也。又地志云、蜀郡汶江縣、江・沱在西南東入江。汶江縣、今永康軍導江縣也。潛水、地志云、巴郡宕渠縣、潛水西南入江。宕渠、今渠州流江縣也。酈道元謂、宕渠縣有大穴、潛水入焉。通罡山下、西南潛出南入于江。又地志漢中郡安陽縣、灊谷水出西南入漢。灊、音潛。安陽縣、今洋州眞符縣也。○又按梁州乃江・漢之原、此不志者、岷之藝導江也。嶓之藝導漾也。道沱、則江悉矣。道潛、則漢悉矣。上志岷・嶓、下志沱・潛。江・漢源流於是而見。
【読み】
△沱[た]・潛旣に道なる。此れ江・漢別流の梁州に在る者なり。沱水は、地志に蜀郡郫[ひ]縣、江・沱東に在り、西して大江郫縣に入る、と。今の成都府郫縣なり。又地志に云う、蜀郡汶江縣、江・沱西南に在りて東して江に入る、と。汶江縣は、今の永康軍導江縣なり。潛水は、地志に云う、巴郡宕渠[とうきょ]縣、潛水西南して江に入る、と。宕渠は、今の渠州流江縣なり。酈道元が謂う、宕渠縣に大穴有り、潛水焉に入る。罡[こう]山の下に通じて、西南に潛出でて南して江に入る、と。又地志に漢中郡安陽縣、灊[せん]谷水西南に出でて漢に入る、と。灊は、音潛。安陽縣は、今の洋州眞符縣なり。○又按ずるに梁州乃ち江・漢の原、此に志[しる]さざるは、岷の藝は江を導くなり。嶓の藝は漾を導くなり。沱を道[みちび]くときは、則ち江悉[つ]くせり。潛を道くときは、則ち漢悉くせり。上に岷・嶓と志し、下に沱・潛と志す。江・漢の源流是に於て見る。

△蔡・蒙旅平。蔡・蒙、二山名。蔡山、輿地記在今雅州嚴道縣。蒙山、地志蜀郡靑衣縣。今雅州名山縣也。酈道元謂、山上合下開。沫水逕其閒。溷崖水脈漂疾、歷代爲患。蜀郡太守李冰、發卒鑿平溷崖。則此二山在禹爲用功多也。祭山曰旅。旅平者、治功畢而旅祭也。
【読み】
△蔡・蒙旅し平らぐ。蔡・蒙は、二山の名。蔡山は、輿地記に今の雅州嚴道縣に在り、と。蒙山は、地志に蜀郡靑衣縣、と。今の雅州名山縣なり。酈道元が謂う、山上合いて下開く。沫水其の閒を逕る。溷[こん]崖水脈漂疾にして、歷代患えを爲す。蜀郡の太守李冰、卒を發して溷崖を鑿り平らぐ。則ち此の二山は禹に在りて用功を爲すこと多し。山を祭るを旅と曰う。旅平とは、治功畢わりて旅祭するなり。

△和夷厎績。和夷、地名。嚴道以西有和川、有夷道。或其地也。又按晁氏曰、和夷、二水名。和水、今雅州滎經縣北。和川水、自蠻界羅嵒州東西來、逕蒙山。所謂靑衣水而入岷・江者也。夷水、出巴郡魚復縣、東南過佷山縣南、又東過夷道縣北、東入于江。今詳二說、皆未可必。但經言厎績者三。覃懷・原隰、旣皆地名、則此恐爲地名。或地名因水、亦不可知也。
【読み】
△和夷績[こと]を厎[いた]す。和夷は、地の名。嚴道より以西に和川有り、夷道有り。或は其の地ならん。又按ずるに晁氏が曰く、和夷は、二水の名なり。和水は、今の雅州滎經縣の北。和川の水は、蠻界羅嵒[らがん]州の東西より來り、蒙山を逕る、と。所謂靑衣水にして岷・江に入る者なり。夷水は、巴郡魚復縣より出でて、東南して佷山[こんざん]縣の南を過ぎ、又東して夷道縣の北を過ぎ、東して江に入る、と。今二說を詳らかにするに、皆未だ必とす可からず。但經に績を厎すと言う者三つ。覃懷[たんかい]・原隰、旣に皆地の名なるときは、則ち此れ恐らくは地の名爲らん。或は地の名の水に因るも、亦知る可からず。

△厥土靑黎。黎、黑也。
【読み】
△厥の土は靑く黎[くろ]し。黎は、黑きなり。

△厥田惟下上。厥賦下中三錯。田第七等、賦第八等、雜出第七第九等也。按賦雜出他等者、或以爲歲有豐凶、或以爲戶有增減、皆非也。意者地力有上下年分不同。如周官田一易再易之類。故賦之等第亦有上下年分。冀之正賦第一等、而閒歲第二等也。揚之正賦第七等、而閒歲第六等也。豫之正賦第二等、而閒歲第一等也。梁之正賦第八等、而閒歲出第七第九等也。當時必有條目詳具。今不存矣。書之所載、特凡例也。若謂歲之豐凶、戶之增減、則九州皆然、何獨於冀・揚・豫・梁四州言哉。
【読み】
△厥の田は惟れ下の上なり。厥の賦は下の中にして三つ錯[まじ]われり。田は第七等、賦は第八等にて、第七第九等を雜え出だすなり。按ずるに賦他の等を雜え出だす者は、或は以爲えらく、歲に豐凶有り、或は以爲えらく、戶に增減有りとは、皆非なり。意は地力に上下年分同じからざる有り。周官の田一易再易の類の如し。故に賦の等第も亦上下年分有り。冀の正賦は第一等にして、閒歲は第二等なり。揚の正賦は第七等にして、閒歲は第六等なり。豫の正賦は第二等にして、閒歲は第一等なり。梁の正賦は第八等にして、閒歲は第七第九等を出だすなり。當時必ず條目の詳らかに具わる有り。今存せず。書の載する所は、特に凡例なり。若し歲の豐凶、戶の增減なりと謂わば、則ち九州皆然るに、何ぞ獨り冀・揚・豫・梁の四州に於てのみ言わんや。

△厥貢璆鐵・銀鏤・砮磬・熊羆・狐貍・織皮。璆、玉磬。鐵、柔鐵也。鏤、剛鐵。可以刻鏤者也。磬、石磬也。言鐵而先於銀者、鐵之利多於銀也。後世蜀之卓氏・程氏、以鐵冶富擬封君、則梁之利尤在於鐵也。織皮者、梁州之地、山林爲多、獸之所走、熊羆狐狸四獸之皮、製之可以爲裘、其毳毛織之可以爲罽也。○林氏曰、徐州貢浮磬。此州旣貢玉磬、又貢石磬。豫州又貢磬錯。以此觀之、則知當時樂器、磬最爲重。豈非以其聲角、而在淸濁小大之閒、最難得其和者哉。
【読み】
△厥の貢は璆鐵[きゅうてつ]・銀鏤[ぎんろう]・砮磬・熊羆[ゆうひ]・狐貍・織れる皮なり。璆は、玉磬。鐵は、柔鐵なり。鏤は、剛鐵。以て刻鏤す可き者なり。磬は、石磬なり。鐵を言いて銀より先にする者は、鐵の利銀より多ければなり。後世蜀の卓氏・程氏、鐵冶を以て富み封君に擬するときは、則ち梁の利尤も鐵に在り。織れる皮は、梁州の地、山林多きを爲し、獸の走る所、熊羆狐狸四獸の皮、之を製して以て裘に爲る可く、其の毳毛[ぜいもう]之を織りて以て罽[けい]に爲る可し。○林氏が曰く、徐州は浮磬を貢す。此の州旣に玉磬を貢し、又石磬を貢す。豫州も又磬錯を貢す。此を以て之を觀れば、則ち知る、當時の樂器は、磬を最も重きとす。豈其の聲は角にして、淸濁小大の閒に在るを以て、最も其の和を得難き者に非ざらんや、と。

△西傾因桓是來。浮于潛、逾于沔、入于渭、亂于河。西傾、山名。地志在隴西郡臨洮縣西。今洮州臨潭縣西南。桓、水名。水經曰、西傾之南、桓水出焉。蘇氏曰、漢始出爲漾、東南流爲沔、至漢中東行爲漢沔。酈道元曰、自西傾而至葭萌、浮于西漢。西漢、卽潛水也。自西漢遡流而屆于晉壽界。阻漾・枝・津、南歷岡北迤邐接漢・沔、歷漢川至于褒水。逾褒而曁于衙嶺之南溪、灌于斜川、屆于武功、而北以入于渭。漢武帝時、人有上書欲通褒斜道、及漕事、下張湯問之。云、褒水通沔斜水通渭、皆可以漕。從南陽上沔入褒。褒絕水至斜、閒百餘里。以車轉從斜下渭。如此則漢中穀可致。經言沔・渭、而不言褒・斜者、因大以見小也。褒・斜之閒、絕水百餘里。故曰逾。然於經文則當曰逾于渭、今曰逾于沔。此又未可曉也。絕河而渡曰亂。
【読み】
△西傾より桓に因りて是に來る。潛に浮かび、沔[べん]を逾え、渭に入り、河を亂[わた]る。西傾は、山の名。地志に隴西郡臨洮縣の西に在り、と。今の洮州臨潭[りんたん]縣の西南なり。桓は、水の名。水經に曰く、西傾の南、桓水出づ、と。蘇氏が曰く、漢始めて出でて漾と爲り、東南に流れて沔と爲り、漢中に至りて東行して漢沔と爲る、と。酈道元が曰く、西傾よりして葭萌[かぼう]に至り、西漢に浮かぶ。西漢は、卽ち潛水なり。西漢より流れに遡りて晉壽の界に屆る。漾・枝・津を阻して、南して岡北を歷て迤邐[いり]して漢・沔に接し、漢川を歷て褒水に至る。褒を逾えて衙嶺[がれい]の南溪に曁[およ]び、斜川に灌ぎ、武功に屆りて、北して以て渭に入る、と。漢の武帝の時、人上書して褒斜の道を通じ、及び漕の事を欲するもの有り、張湯に下して之を問わしむ。云う、褒水は沔に通じ斜水は渭に通じて、皆以て漕す可し。南陽より沔に上り褒に入る。褒水を絕ちて斜に至ること、百餘里を閒[へだ]つ。車を以て轉じて斜より渭に下らん。此の如くならば則ち漢中の穀致す可し、と。經に沔・渭を言いて、褒・斜を言わざるは、大に因りて以て小を見すなり。褒・斜の閒、水を絕つこと百餘里。故に逾と曰う。然れども經文に於て則ち當に渭を逾ゆと曰うべくして、今沔を逾ゆと曰う。此れ又未だ曉[さと]る可からず。河を絕ちて渡るを亂と曰う。

△黑水・西河惟雍州。雍州之域、西據黑水、東距西河。謂之西河者、主冀都而言也。
【読み】
△黑水・西河は惟れ雍州なり。雍州の域、西は黑水に據り、東は西河に距る。之を西河と謂うは、冀都を主として言えり。

△弱水旣西。劉宗元曰、西海之山有水焉。散渙無力。不能負芥。投之則委靡墊沒、及底而後止。故名曰弱。旣西者、導之西流也。地志云、在張掖郡刪丹縣。薛氏曰、弱水出吐谷渾界窮石山、自刪丹西至合黎山、與張掖縣河合。又按通鑑、魏太武擊柔然至栗水、西行至菟園水、分郡搜討。又循弱水、西行至涿邪山、則弱水在菟園水之西、涿邪山之東矣。北史載太武至菟園水、分軍搜討。東至瀚海、西接張掖水、北度燕然山。與通鑑小異。豈瀚海・張掖水、於弱水爲近乎。程氏據西域傳、以弱水爲在條支。援引甚悉。然長安西行一萬二千二百里、又百餘日方至條支。其去雍州如此之遠。禹豈應窮荒而導其流也哉。其說非是。
【読み】
△弱水旣に西す。劉宗元が曰く、西海の山に水有り。散渙として力無し。芥を負うこと能わず。之を投ずれば則ち委靡墊沒[てんぼつ]し、底に及んで後に止む、と。故に名づけて弱と曰う。旣に西すとは、之を導いて西に流るるなり。地志に云う、張掖郡刪丹縣に在り、と。薛氏が曰く、弱水は吐谷渾の界の窮石山に出でて、刪丹の西より合黎山に至りて、張掖縣の河と合う、と。又按ずるに通鑑に、魏の太武柔然を擊たんとして栗水に至り、西行して菟園[とえん]水に至り、郡を分かちて搜討す。又弱水に循いて、西行して涿邪山に至るときは、則ち弱水は菟園水の西、涿邪山の東に在り、と。北史に載す、太武菟園水に至りて、軍を分かちて搜討す。東は瀚海に至り、西は張掖水に接し、北は燕然山に度[わた]る、と。通鑑と小しく異なり。豈瀚海・張掖水を、弱水に於て近きとせんや。程氏西域傳に據りて、弱水を以て條支に在りとす。援引すること甚だ悉くせり。然れども長安より西行すること一萬二千二百里、又百餘日にして方に條支に至る。其の雍州を去ること此の如く遠し。禹豈應に荒を窮めて其の流を導くべけんや。其の說是に非ず。

△涇屬渭・汭。涇・渭・汭、三水名。涇水、地志出安定郡涇陽縣西。今原州百泉縣岍頭山也。東南至馮翊陽陵縣入渭。今永興軍高陵縣也。渭水、地志出隴西郡首陽縣西南。今渭州渭源縣、鳥鼠山西北南谷山也。東至京兆船司空縣入河。今華州華陰縣也。汭水、地志作芮。扶風岍縣弦蒲藪。芮水出其西北、東入涇。今隴州岍源縣弦蒲藪有汭水焉。周職方雍州其川涇・汭。詩曰、汭鞫之卽、皆謂是也。屬、連屬也。涇水連屬渭・汭二水也。
【読み】
△涇は渭・汭[ぜい]に屬[つづ]く。涇・渭・汭は、三水の名。涇水は、地志に安定郡涇陽縣の西より出づ、と。今の原州百泉縣の岍[けん]頭山なり。東南して馮翊[ひょうよく]陽陵縣に至りて渭に入る。今の永興軍高陵縣なり。渭水は、地志に隴西郡首陽縣の西南より出づ、と。今の渭州渭源縣、鳥鼠山の西北の南谷山なり。東して京兆船司空縣に至りて河に入る。今の華州華陰縣なり。汭水は、地志に芮[ぜい]に作る。扶風岍縣の弦蒲藪なり。芮水は其の西北より出でて、東して涇に入る。今の隴州岍源縣の弦蒲藪に汭水有り。周の職方に雍州其の川は涇・汭、と。詩に曰く、汭の鞫[ほか]まで之れ卽くとは、皆是を謂うなり。屬は、連屬なり。涇水は渭・汭二水に連屬するなり。

△漆・沮旣從。漆・沮、二水名。漆水、寰宇記自耀州同官縣東北界來、經華原縣合沮水。沮水、地志出北地郡直路縣東。今坊州宜君縣西北境也。寰宇記、沮水自坊州昇平縣北、子午嶺出。俗號子午水。下合楡谷・慈馬等川、遂爲沮水。至耀州華原縣合漆水。至同州朝邑縣東南入渭。二水相敵。故竝言之。旣從者、從於渭也。又按地志謂漆水出扶風縣。晁氏曰、此豳之漆也。水經漆水出扶風杜陽縣。程氏曰、杜陽、今岐山普潤縣之地。亦漢漆縣之境。其水入渭、在灃水之上。與經序渭水節次不合。非禹貢之漆水也。
【読み】
△漆・沮旣に從う。漆・沮は、二水の名。漆水は、寰宇記[かんうき]に耀州同官縣の東北の界より來りて、華原縣を經て沮水に合う、と。沮水は、地志に北地郡直路縣の東より出づ、と。今の坊州宜君縣の西北の境なり。寰宇記に、沮水は坊州昇平縣の北、子午嶺より出づ。俗に子午水と號す。下りて楡谷・慈馬等の川に合いて、遂に沮水と爲る。耀州華原縣に至りて漆水に合う。同州朝邑縣の東南に至りて渭に入る、と。二水相敵す。故に竝べて之を言う。旣に從うとは、渭に從うなり。又按ずるに地志に謂ゆる漆水は扶風縣より出づ、と。晁氏が曰く、此れ豳[ひん]の漆なり、と。水經に漆水は扶風杜陽縣より出づ、と。程氏が曰く、杜陽は、今の岐山普潤縣の地。亦漢漆縣の境なり。其の水は渭に入り、灃[ほう]水の上に在り、と。經の渭水を序ずる節次と合わず。禹貢の漆水に非ず。

△灃水攸同。灃水、地志作鄷。出扶風鄠縣終南山。今永興軍鄠縣山也。東至咸陽縣入渭。同者、同於渭也。渭水自鳥鼠而東、灃水南注之、涇水北注之、漆・沮東北注之。曰屬曰從曰同、皆主渭而言也。
【読み】
△灃水[ほうすい]同じくする攸なり。灃水は、地志に鄷[ほう]に作る。扶風鄠[こ]縣終南山より出づ。今の永興軍鄠縣山なり。東して咸陽縣に至りて渭に入る。同じくすとは、渭に同じくするなり。渭水鳥鼠よりして東し、灃水南より之に注ぎ、涇水北より之に注ぎ、漆・沮東北より之に注ぐ。屬と曰い從と曰い同と曰うは、皆渭を主として言えり。

△荆・岐旣旅。終南・惇物、至于鳥鼠。荆・岐、二山名。荆山、卽北條之荆。地志在馮翊懷德縣南。今耀州富平縣掘陵原也。岐山、地志在扶風美陽縣西北。今鳳翔府岐山縣東北十里也。終南・惇物・鳥鼠、亦皆山名。終南、地志古文以太一山爲終南山。在扶風武功縣。今永興軍萬年縣南五十里也。惇物、地志古文以埀山爲惇物。在扶風武功縣。今永興軍武功縣也。鳥鼠、地志在隴西郡首陽縣西南。今渭州渭源縣西也。俗呼爲靑雀山。舉三山而不言所治者、蒙上旣旅之文也。
【読み】
△荆・岐旣に旅す。終南・惇物より、鳥鼠に至る。荆・岐は、二山の名。荆山は、卽ち北條の荆なり。地志に馮翊[ひょうよく]懷德縣の南に在り、と。今の耀州富平縣の掘陵原なり。岐山は、地志に扶風美陽縣の西北に在り、と。今の鳳翔府岐山縣の東北十里なり。終南・惇物・鳥鼠も、亦皆山の名なり。終南は、地志古文に太一山を以て終南山とす。扶風武功縣に在り、と。今の永興軍萬年縣の南五十里なり。惇物は、地志古文に埀山を以て惇物とす。扶風武功縣に在り、と。今の永興軍武功縣なり。鳥鼠は、地志に隴西郡首陽縣の西南に在り、と。今の渭州渭源縣の西なり。俗に呼んで靑雀山とす。三山を舉げて所治を言わざるは、上の旣に旅すの文に蒙ればなり。

△原隰厎績、至于豬野。廣平曰原。下濕曰隰。詩曰、度其隰原、卽指此也。鄭氏曰、其地在豳。今邠州也。豬野、地志云、武威縣東北有休屠澤、古今以爲豬野。今涼州姑臧縣也。治水成功、自高而下。故先言山、次原隰、次陂澤也。
【読み】
△原隰績[こと]を厎[いた]して、豬野に至る。廣平を原と曰う。下濕を隰と曰う。詩に曰く、其の隰原を度[わた]るとは、卽ち此を指すなり。鄭氏が曰く、其の地豳に在り。今の邠[ひん]州なり、と。豬野は、地志に云う、武威縣の東北に休屠澤有り、古今以て豬野とす、と。今の涼州姑臧[こそう]縣なり。水を治め功を成すは、高きよりして下。故に先ず山を言いて、次に原隰、次に陂澤なり。

△三危旣宅。三苗丕敍。三危、卽舜竄三苗之地。或以爲燉煌。未詳其地。三苗之竄、在洪水未平之前。及是三危已旣可居、三苗於是大有功敍。今按舜竄三苗、以其惡之尤甚者遷之、而立其次者於舊都。今旣竄者已丕敍、而居於舊都者、尙桀驁不服。蓋三苗舊都、山川險阻、氣習使然。今湖南徭洞、時猶竊發。俘而詢之、多爲猫姓。豈其遺種歟。
【読み】
△三危旣に宅れり。三苗丕[おお]いに敍あり。三危は、卽ち舜の三苗を竄[さん]するの地なり。或ひと以爲えらく燉煌、と。未だ其の地を詳らかにせず。三苗の竄は、洪水未だ平らげざるの前に在り。是の三危已旣に居る可きに及んで、三苗是に於て大いに功敍有り。今按ずるに舜の三苗を竄するは、其の惡の尤も甚だしき者を以て之を遷して、其の次なる者を舊都に立つ。今旣に竄者已に丕いに敍で、舊都に居る者、尙桀驁[けつごう]して服せず。蓋し三苗の舊都、山川險阻にて、氣習然らしむ。今湖南徭洞[ようどう]、時に猶竊かに發す。俘[とりこ]にして之を詢[と]わば、多く猫姓爲り。豈其れ遺種か。

△厥土惟黃壤。黃者、土之正色。林氏曰、物得其常性者最貴。雍州之土黃壤。故其田非他州所及。
【読み】
△厥の土は惟れ黃壤なり。黃は、土の正色なり。林氏が曰く、物の其の常性を得る者最も貴し。雍州の土は黃壤なり。故に其の田は他州の及ぶ所に非ず、と。

△厥田惟上上。厥賦中下。田第一等、而賦第六等者、地狹而人功少也。
【読み】
△厥の田は惟れ上の上なり。厥の賦は中の下なり。田第一等にして、賦第六等なるは、地狹くして人功少なければなり。

△厥貢惟球琳・琅玕。球琳、美玉也。琅玕、石之似珠者。爾雅曰、西北之美者、有崐崘虛之球琳・琅玕。今南海有靑琅玕・珊瑚屬也。
【読み】
△厥の貢は惟れ球琳・琅玕[ろうかん]なり。球琳は、美玉なり。琅玕は、石の珠に似たる者。爾雅に曰く、西北の美しき者、崐崘[こんろん]虛の球琳・琅玕有り、と。今南海に靑琅玕・珊瑚の屬有り。

△浮于積石、至于龍門・西河、會于渭汭。積石、地志在金城郡河關縣西南羌中。今鄯州龍支縣界也。龍門山、地志在馮翊夏陽縣。今河中府龍門縣也。西河、冀之西河也。雍之貢道有二。其東北境、則自積石至于西河。其西南境、則會于渭汭。言渭汭不言河者、蒙梁州之文也。他州貢賦亦當不止一道。發此例以互見耳。○按邢恕奏、乞下煕河路、打造船五百隻、於黃河順流放下、至會州西小河内、藏放煕河路。漕使李復奏、竊知邢恕欲用此船載兵順流而下、去取興州、契勘會州之西。小河鹹水、其闊不及一丈、深止於一二尺。豈能藏船。黃河過會州、入韋精山。石峽險窄、自上埀流直下、高數十丈。船豈可過。至西安州之東、大河分爲六七道、散流渭之南山、逆流數十里、方再合。逆溜水淺灘磧、不勝舟載。此聲若出、必爲夏國侮笑。事遂寢。邢恕之策、如李復之言、可謂謬矣。然此言貢賦之路。亦曰浮于積石、至于龍門・西河。則古來此處河道、固通舟楫矣。而復之言乃如此何也。姑錄之以備參考云。
【読み】
△積石に浮かんで、龍門・西河に至り、渭汭[いぜい]に會す。積石は、地志に金城郡河關縣の西南の羌中に在り、と。今の鄯[ぜん]州龍支縣の界なり。龍門山は、地志に馮翊[ひょうよく]夏陽縣に在り、と。今の河中府龍門縣なり。西河は、冀の西河なり。雍の貢道は二つ有り。其の東北の境は、則ち積石より西河に至る。其の西南の境は、則ち渭汭に會す。渭汭を言いて河を言わざるは、梁州の文に蒙れり。他州の貢賦も亦當に一道に止まらざるべし。此の例を發して以て互いに見るのみ。○按ずるに邢恕奏すらく、乞う、煕河路を下りて、造船五百隻を打[つく]り、黃河の順流に於て放下し、會州の西の小河の内に至りて、藏して煕河路に放たん、と。漕使李復奏すらく、竊かに知る、邢恕は此の船を用いて兵を載せて流れに順いて下り、興州に去取し、會州の西に契勘せんと欲す。小河鹹水[かんすい]、其の闊[ひろ]きこと一丈に及ばず、深きこと一二尺に止まる。豈能く船を藏さんや。黃河は會州を過ぎて、韋精山に入る。石峽險窄にして、上より埀れ流れ直に下ること、高さ數十丈なり。船豈過ぐ可けんや。西安州の東に至りて、大河分かれて六七道と爲り、渭の南山に散流し、逆流すること數十里にして、方に再び合う。逆溜水淺く灘は磧にして、舟を載するに勝えず。此の聲若し出ださば、必ず夏國の爲に侮笑せられん、と。事遂に寢[や]みぬ。邢恕が策、李復が言の如くなれば、謬れりと謂う可し。然れども此れ貢賦の路を言う。亦曰う、積石に浮かんで、龍門・西河に至る、と。則ち古來此の處の河道は、固より舟楫を通ぜん。而るに復が言の乃ち此の如きは何ぞや。姑く之を錄して以て參考に備うと云う。

△織皮崑崙・析支・渠搜、西戎卽敍。崑崙、卽河源所出。在臨羌。析支、在河關西千餘里。渠搜、水經曰、河自朔方東轉、經渠搜縣故城北。蓋近朔方之地也。三國皆貢皮衣。故以織皮冠之。皆西方戎落。故以西戎總之。卽、就也。雍州水土旣平而餘功及於西戎。故附于末。○蘇氏曰、靑・徐・揚三州、皆萊夷・淮夷・島夷所篚。此三國亦篚織皮。但古語有顚倒詳略爾。其文當在厥貢惟球琳・琅玕之下、浮于積石之上。簡篇脫誤、不可不正。愚謂、梁州亦篚織皮。恐蘇氏之說爲然。
【読み】
△織皮の崑崙・析支・渠搜より、西戎卽き敍ず。崑崙は、卽ち河源の出づる所。臨羌に在り。析支は、河關の西千餘里に在り。渠搜は、水經に曰く、河は朔方より東に轉じ、渠搜縣の故城の北を經、と。蓋し朔方に近き地なり。三國皆皮衣を貢す。故に織皮を以て之を冠らしむ。皆西方の戎落。故に西戎を以て之を總ぶ。卽は、就くなり。雍州の水土旣に平らげて餘功西戎に及ぶ。故に末に附す。○蘇氏が曰く、靑・徐・揚の三州は、皆萊夷・淮夷・島夷の篚する所。此の三國も亦織皮を篚す。但古語に顚倒詳略有るのみ。其の文は當に厥貢惟球琳・琅玕の下、浮于積石の上に在るべし。簡篇脫誤、正さずんばある可からず、と。愚謂えらく、梁州も亦織皮を篚す。恐らくは蘇氏が說を然りとす。

△導岍及岐、至于荆山。逾于河、壺口・雷首、至于太岳。厎柱・析城、至于王屋。太行・恆山、至于碣石入于海。此下隨山也。岍・岐・荆三山、皆雍州山。岍山、地志扶風岍縣西吳山。古文以爲汧山。今隴州吳山縣吳嶽山也。周禮雍州山鎭曰嶽山。又按寰宇記、隴州岍源有岍山。岍水所出。禹貢所謂岍山也。晁氏以爲今之隴山・天井・金門・秦嶺山者、皆古之岍也。岐・荆、見雍州。壺口・雷首・太岳・厎柱・析城・王屋・太行・恆山、皆冀州山。壺口・太岳・碣石、見冀州。雷首、地志在河東郡蒲坂縣南。今河中府河東縣也。厎柱石、在大河中流。其形如柱。今陜州陜縣三門山是也。析城、地志在河東郡濩澤縣西。今澤州陽城縣也。晁氏曰、山峯四面如城。王屋、地志在河東郡垣縣東北。今絳州垣曲縣也。晁氏曰、山狀如屋。太行山、地志在河内郡山陽縣西北。今懷州河内也。恆山、地志在常山郡上曲陽縣西北。今定州曲陽也。逾者、禹自荆山而過于河也。孔氏以爲、荆山之脈、逾河而爲壺口・雷首者非是。蓋禹之治水、隨山刋木。其所表識諸山之名、必其高大可以辨疆域、廣博可以奠民居。故謹而書之、以見其施功之次第。初非有意推其脈絡之所自來。若今之葬法所言也。若必實以山脈言之、則尤見其說之謬妄。蓋河北諸山根本、脊脈皆自代北・寰武・嵐憲諸州乘高而來。其脊以西之水、則西流以入龍門・西河之上流。其脊以東之水、則東流而爲桑乾・幽・冀、以入于海。其西一支爲壺口・太岳。次一支包汾・晉之源、而南出以爲析城・王屋、而又西折以爲雷首。又次一支乃爲太行、又次一支乃爲恆山。其閒各隔沁潞、諸川不相連屬。豈自岍・岐跨河而爲是諸山哉。山之經理者、已附于逐州之下。於此又條列而詳記之。而山之經緯皆可見矣。王・鄭有三條四列之名。皆爲未當。今據導字分之、以爲南北二條、而江・河以爲之紀。於二之中又分爲二焉。此北條大河、北境之山也。
【読み】
△岍[けん]及び岐を導いて、荆山に至る。河を逾え、壺口・雷首より、太岳に至る。厎柱[しちゅう]・析城より、王屋に至る。太行・恆山より、碣石[けっせき]に至りて海に入る。此より下は山に隨うなり。岍・岐・荆の三山は、皆雍州の山。岍山は、地志に扶風岍縣の西の吳山なり。古文に以て汧山[けんざん]とす。今の隴州吳山縣の吳嶽山なり。周禮に雍州の山鎭を嶽山と曰う、と。又按ずるに寰宇記[かんうき]に、隴州の岍源に岍山有り。岍水出づる所。禹貢に所謂岍山なり、と。晁氏以爲えらく、今の隴山・天井・金門・秦嶺山は、皆古の岍なり、と。岐・荆は、雍州に見えたり。壺口・雷首・太岳・厎柱・析城・王屋・太行・恆山は、皆冀州の山なり。壺口・太岳・碣石は、冀州に見えたり。雷首は、地志に河東郡蒲坂縣の南に在り、と。今の河中府河東縣なり。厎柱石は、大河の中流に在り。其の形は柱の如し。今の陜州陜縣の三門山是れなり。析城は、地志に河東郡濩澤[たく]縣の西に在り、と。今の澤州陽城縣なり。晁氏が曰く、山峯の四面城の如し。王屋は、地志に河東郡垣縣の東北に在り、と。今の絳[こう]州垣曲縣なり。晁氏が曰く、山の狀屋の如し、と。太行山は、地志に河内郡山陽縣の西北に在り、と。今の懷州の河内なり。恆山は、地志に常山郡上曲陽縣の西北に在り、と。今の定州の曲陽なり。逾とは、禹荆山よりして河を過ぐなり。孔氏以爲えらく、荆山の脈、河を逾えて壺口・雷首と爲る者是に非ず。蓋し禹の水を治むるに、山に隨い木を刋[き]る。其の表識する所の諸山の名は、必ず其れ高大にして以て疆域を辨ず可く、廣博にして以て民居を奠[さだ]む可し。故に謹んで而して之を書して、以て其の功を施すの次第を見す。初めより其の脈絡の自りて來る所を推すに意有るに非ず。今の葬法に言う所の若し。必ず實に山脈を以て之を言うが若くなれば、則ち尤も其の說の謬妄を見る。蓋し河北諸山の根本、脊脈皆代北・寰武・嵐憲の諸州より高きに乘じて來る。其の脊以西の水は、則ち西に流れて以て龍門・西河の上流に入る。其の脊以東の水は、則ち東に流れて桑乾・幽・冀と爲りて、以て海に入る。其の西の一支は壺口・太岳と爲る。次の一支は汾・晉の源を包ねて、南に出でて以て析城・王屋と爲り、而して又西に折れて以て雷首と爲る。又次の一支は乃ち太行と爲り、又次の一支は乃ち恆山と爲る。其の閒各々沁潞を隔てて、諸川相連屬せず。豈岍・岐より河を跨いで是の諸山と爲らんや、と。山の經理の者、已に逐州の下に附す。此に於て又條列して詳らかに之を記す。而して山の經緯皆見る可し。王・鄭に三條四列の名有り。皆未だ當たらずとす。今導の字に據りて之を分かちて、以て南北二條として、江・河以て之が紀とす。二つの中に於て又分かちて二つとす。此れ北條の大河、北境の山なり。

△西傾・朱圉・鳥鼠、至于太華。熊耳・外方・桐柏、至于陪尾。西傾・朱圉・鳥鼠・太華、雍州山也。熊耳・外方・桐柏・陪尾、豫州山也。西傾、見梁州。朱圉、地志在天水郡冀縣南。今秦州大潭縣也。俗呼爲白巖山。鳥鼠、見雍州。太華、地志在京兆華陰縣南。今華州華陰縣二十里也。熊耳、在商州上洛縣。詳見豫州。外方、地志穎川郡崈高縣有崈高山、古文以爲外方。在今西京登封縣也。桐柏、地志在南陽郡平氏縣東南。今唐州桐柏縣也。陪尾、地志江夏郡安陸縣東北有橫尾山、古文以爲陪尾。今安州安陸也。西傾不言導者、蒙導岍之文也。此北條大河、南境之山也。
【読み】
△西傾・朱圉[しゅぎょ]・鳥鼠より、太華に至る。熊耳・外方・桐柏より、陪尾に至る。西傾・朱圉・鳥鼠・太華は、雍州の山なり。熊耳・外方・桐柏・陪尾は、豫州の山なり。西傾は、梁州に見えたり。朱圉は、地志に天水郡冀縣の南に在り、と。今の秦州大潭[たん]縣なり。俗に呼んで白巖山とす。鳥鼠は、雍州に見えたり。太華は、地志に京兆華陰縣の南に在り、と。今の華州華陰縣の二十里なり。熊耳は、商州上洛縣に在り。詳らかに豫州に見えたり。外方は、地志に穎川郡崈高縣に崈高山有り、古文に以て外方とす。今の西京登封縣に在り。桐柏は、地志に南陽郡平氏縣の東南に在り、と。今の唐州桐柏縣なり。陪尾は、地志に江夏郡安陸縣の東北に橫尾山有り、古文に以て陪尾とす。今の安州安陸なり。西傾導を言わざるは、導岍の文に蒙れり。此れ北條の大河、南境の山なり。

△導嶓冢、至于荆山。内方至于大別。嶓冢、卽梁州之嶓也。山形如冢。故謂之嶓冢。詳見梁州。荆山、南條荆山。地志在南郡臨沮縣北。今襄陽府南章縣也。内方・大別、亦山名。内方、地志章山。古文以爲内方山在江夏郡竟陵縣東北。今荆門軍長林縣也。左傳吳與楚戰、楚濟漢而陳、自小別至于大別。蓋近漢之山、今漢陽軍漢陽縣北大別山是也。地志水經云在安豐者非是。此南條江漢、北境之山也。
【読み】
△嶓冢[はちょう]を導いて、荆山に至る。内方より大別に至る。嶓冢は、卽ち梁州の嶓なり。山の形冢の如し。故に之を嶓冢と謂う。詳らかに梁州に見えたり。荆山は、南條の荆山なり。地志に南郡臨沮縣の北に在り、と。今の襄陽府南章縣なり。内方・大別も、亦山の名なり。内方は、地志に章山、と。古文以て内方山は江夏郡竟陵縣の東北に在りとす。今の荆門軍長林縣なり。左傳に吳と楚と戰い、楚漢を濟りて陳し、小別より大別に至る、と。蓋し漢に近き山にて、今の漢陽軍漢陽縣の北の大別山是れなり。地志水經に安豐に在る者と云うは是に非ず。此れ南條の江漢、北境の山なり。

△岷山之陽、至于衡山、過九江、至于敷淺原。岷山、見梁州。衡山、南嶽也。地志在長沙國湘南縣。今潭州衡山縣也。九江、見荆州。敷淺原、地志云、豫章郡歷陵縣南有博易山。古文以爲敷淺原。今江州德安縣博陽山也。晁氏以爲在鄱陽者非是。今按晁氏以鄱陽有博陽山、又有歷陵山、爲應地志歷陵縣之名。然鄱陽、漢舊縣地、不應又爲歷陵縣。山名偶同。不足據也。江州德安、雖爲近之、然所謂敷淺原者、其山其小而卑。亦未見其爲在所表見者。惟廬阜在大江・彭蠡之交、最高且大。宜所當紀志者、而皆無考據。恐山川之名、古今或異。而傳者未必得其眞也。姑俟知者。過、經過也。與導岍逾于河之義同。孔氏以爲衡山之脈連延、而爲敷淺原者亦非是。蓋岷山之脈、其北一支爲衡山、而盡於洞庭之西、其南一支、度桂嶺、北經袁筠之地至德安。所謂敷淺原者。二支之閒、湘水閒斷。衡山在湘水西南、敷淺原在湘水東北。其非衡山之脈連延。過九江、而爲敷淺原者明甚。且其山川崗脊、源流具在眼前。而古今異說如此。況殘山斷港、歷數千百年者、尙何自取信哉。岷山不言導者、蒙導嶓冢之文也。此南條江漢、南境之山也。
【読み】
△岷山[びんざん]の陽[みなみ]より、衡山に至り、九江を過ぎて、敷淺原に至る。岷山は、梁州に見えたり。衡山は、南嶽なり。地志に長沙國湘南縣に在り、と。今の潭[たん]州衡山縣なり。九江は、荆州に見えたり。敷淺原は、地志に云う、豫章郡歷陵縣の南に博易山有り、と。古文に以て敷淺原とす。今の江州德安縣の博陽山なり。晁氏以爲えらく、鄱陽[はよう]に在るという者は是に非ず。今按ずるに晁氏鄱陽に博陽山有り、又歷陵山有るを以て、地志の歷陵縣の名に應ずとす。然れども鄱陽は、漢の舊縣の地にて、應に又歷陵縣とすべからず。山の名偶々同じ。據るに足らず。江州の德安は、之に近しとすと雖も、然れども所謂敷淺原は、其の山其れ小にして卑し。亦未だ其の在る所の表見を爲す者を見ず。惟れ廬阜は大江・彭蠡[ほうれい]の交わりに在り、最も高く且つ大なり。宜しく當に紀志すべき所の者にして、皆考え據ること無し。恐らくは山川の名、古今或は異なり。而して傳者未だ必ずしも其の眞を得ず。姑く知者を俟たん。過は、經過なり。岍を導いて河を逾ゆるの義と同じ。孔氏以爲えらく、衡山の脈連延として、敷淺原と爲るという者も亦是に非ず。蓋し岷山の脈は、其の北の一支は衡山と爲りて、洞庭の西を盡くし、其の南の一支は、桂嶺を度[わた]り、北して袁筠[えんいん]の地を經て德安に至る。所謂敷淺原という者なり。二支の閒、湘水閒斷す。衡山は湘水の西南に在り、敷淺原は湘水の東北に在り。其れ衡山の脈連延するに非ず。九江を過ぎて、敷淺原と爲る者明らかなること甚だし。且つ其れ山川の崗脊、源流具に眼前に在り。而るに古今異說此の如し。況んや殘山斷港、數千百年を歷る者、尙何ぞ自ら信を取らんや。岷山導を言わざるは、嶓冢を導くの文に蒙れり。此れ南條の江漢、南境の山なり。

△導弱水、至于合黎、餘波入于流沙。此下濬川也。弱水見雍州。合黎、山名。隋地志在張掖縣西北。亦名羌谷。流沙、杜佑云、在沙州西八十里。其沙隨風流行。故曰流沙。水之疏導者、已附于逐州之下。於此又派別而詳記之。而水之經徫皆可見矣。濬川之功、自隨山始。故導水次於導山也。又按山水皆原於西北。故禹敍山敍水、皆自西北而東南。導山則先岍・岐。導水則先弱水也。
【読み】
△弱水を導いて、合黎に至り、餘波は流沙に入る。此の下は川を濬[さら]うなり。弱水は雍州に見えたり。合黎は、山の名。隋の地志に張掖縣の西北に在り、と。亦羌谷と名づく。流沙は、杜佑が云う、沙州の西八十里に在り、と。其の沙風に隨いて流行す。故に流沙と曰う。水の疏導する者、已に逐州の下に附す。此に於て又派別にして詳らかに之を記す。而して水の經徫[けいい]皆見る可し。川を濬うの功、山に隨うにより始まる。故に導水は導山に次げり。又按ずるに山水は皆西北に原づく。故に禹山を敍で水を敍ずること、皆西北よりして東南なり。山を導くは則ち岍・岐を先にす。水を導くは則ち弱水を先にす。

△導黑水、至于三危、入于南海。黑水、地志出犍爲郡南廣縣汾關山。水經出張掖雞山、南至燉煌、過三危山、南流入于南海。唐樊綽云、西夷之水、南流入于南海者凡四。曰區江、曰西珥河、曰麗水、曰濔渃江、皆入于南海。其曰麗水者、卽古黑水也。三危山臨峙其上。按梁・雍二州、西邉皆以黑水爲界。是黑水自雍之西北、而直出梁之西南也。中國山勢岡脊、大抵皆自西北而來。積石・西傾・岷山・岡脊以東之水、旣入于河漢・岷江。其岡脊以西之水、卽爲黑水而入于南海。地志水經、樊氏之說、雖未詳的實、要是其地也。程氏曰、樊綽以麗水爲黑水者、恐其狹小不足爲界。其所稱西珥河者、却與漢志葉楡澤相貫。廣處可二十里。旣足以界別二州、其流又正趨南海。又漢滇池卽葉楡之地。武帝初開滇嶲時、其地古有黑水舊祠。夷人不知載籍、必不能附會。而綽及道元皆謂、此澤以楡葉所積得名、則其水之黑、似楡葉積漬所成。且其地乃在蜀之正西、又東北距宕昌不遠。宕昌、卽三苗種裔、與三苗之敍于三危者、又爲相應。其證驗莫此之明也。
【読み】
△黑水を導いて、三危に至り、南海に入る。黑水は、地志に犍爲[けんい]郡南廣縣の汾關山より出づ、と。水經に張掖雞山より出で、南して燉煌に至り、三危山を過ぎて、南に流れて南海に入る、と。唐の樊綽[はんしゃく]が云う、西夷の水、南に流れて南海に入る者凡そ四つ。區江と曰い、西珥[せいじ]河と曰い、麗水と曰い、濔渃[びじゃく]江と曰い、皆南海に入る。其れ麗水と曰う者は、卽ち古の黑水なり。三危山其の上に臨み峙[そばだ]つ、と。按ずるに梁・雍の二州、西邉は皆黑水を以て界とす。是れ黑水雍の西北よりして、直に梁の西南に出づるなり。中國の山勢岡脊、大抵皆西北よりして來る。積石・西傾・岷山・岡脊以東の水は、旣に河漢・岷江に入る。其の岡脊以西の水は、卽ち黑水と爲りて南海に入る。地志水經、樊氏が說、未だ的實を詳らかにせずと雖も、要すれば是れ其の地なり。程氏が曰く、樊綽麗水を以て黑水とする者、恐らくは其れ狹小にして界とするに足らず。其の西珥河と稱する所の者は、却って漢志の葉楡澤と相貫く。廣き處は二十里なる可し。旣に以て二州を界別するに足り、其の流れも又正に南海に趨く。又漢の滇池[てんち]は卽ち葉楡の地なり。武帝初めて滇嶲[てんけい]を開く時、其の地に古黑水の舊祠有り。夷人載籍を知らず、必ず附會すること能わず。而して綽及び道元も皆謂う、此の澤楡葉の積む所を以て名を得れば、則ち其の水の黑きこと、楡葉の積漬して成す所に似れり。且つ其の地は乃ち蜀の正西に在り、又東北は宕昌[とうしょう]に距ること遠からず。宕昌は、卽ち三苗の種裔と、三苗の三危に敍ずる者と、又相應を爲す、と。其の證驗此より明らかなること莫し。

△導河積石、至于龍門。南至于華陰、東至于厎柱、又東至于孟津。東過洛汭、至于大伾。北過洚水、至于大陸。又北播爲九河、同爲逆河入于海。積石・龍門、見雍州。華陰、華山之北也。厎柱、見導山。孟、地名。津、渡處也。杜預云、在河内郡河陽縣南。今孟州河陽縣也。武王師渡孟津者卽此。今亦名富平津。洛汭、洛水交流之内、在今河南府鞏縣之東。洛之入河、實在東南。河則自西而東過之。故曰東過洛汭。大伾、孔氏曰、山再成曰伾。張揖以爲在成皐。鄭玄以爲在脩武。武德臣瓚以爲脩武。武德無此山。成皐山又不再成。今通利軍黎陽縣臨河有山。蓋大伾也。按黎陽山、在大河埀欲趨北之地。故禹記之。若成皐之山、旣非從東折北之地。又無險礙如龍門・厎柱之須疏鑿。西去洛汭旣已大近、東距洚水・大陸、又爲絕遠。當以黎陽者爲是。洚水、地志在信都縣。今冀州信都縣枯洚渠也。程氏曰、周時河徙砱礫。至漢又改向頓丘東南流。與禹河迹大相背戾。地志魏郡鄴縣有故大河、在東北直達于海。疑卽禹之故河。孟康以爲王莽河非也。古洚瀆、自唐貝州經城北入南宮、貫穿信都。大抵北向而入。故河於信都之北爲合。北過洚水之文、當以信都者爲是。大陸、見冀州。九河、見兗州。逆河、意以海水逆潮而得名。九河旣淪于海、則逆河在其下流、固不復有矣。河上播而爲九、下同而爲一。其分播合同、皆水勢之自然。禹特順而導之耳。今按漢西域傳、張鶱所窮河源云、河有兩源。一出葱嶺、一出于闐。于闐、在南山下。其河北流與葱嶺河合。東注蒲昌海。蒲昌海、一名鹽澤。去玉門・陽關三百餘里、其水停居、冬夏不增減、潛行地中、南出積石。又唐長慶中薛元鼎使吐蕃。自隴西成紀縣西南、出塞二千餘里、得河源於莫賀延磧尾。曰悶磨黎山。其山中高四下。所謂崑崙也。東北流與積石河相連。河源澄瑩、冬春可涉。下稍合流。色赤益遠。他水幷注遂濁。吐蕃亦自言、崑崙在其國西南。二說恐薛氏爲是。河自積石三千里、而後至于龍門。經但一書積石、不言方向、荒遠在所略也。龍門而下、因其所經。記其自北而南、則曰南至華陰。記其自南而東、則曰東至厎柱。又詳記其東向所經之地、則曰孟津、曰洛汭、曰大伾。又記其自東而北、則曰北過洚水。又詳記其北向所經之地、則曰大陸、曰九河。又記其入海之處、則曰逆河。自洛汭而上、河行於山。其地皆可攷。自大伾而下、垠岸高於平地。故決齧流移、水陸變遷、而洚水・大陸・九河・逆河、皆難指實。然上求大伾、下得碣石、因其方向、辨其故迹、則猶可考也。其詳悉見上文。○又按李復云、同州韓城北、有安國嶺、東西四十餘里、東臨大河。瀕河有禹廟在山斷河出處。禹鑿龍門、起於唐張仁愿所築東受降城之東。自北而南、至此山盡。兩岸石壁峭立、大河盤束於山峽閒。千數百里、至此山開岸闊、豁然奔放、怒氣噴風、聲如萬雷。今按舊說、禹鑿龍門。而不詳其所以鑿、誦說相傳。但謂、因舊修闢去其齟齬、以決水勢而已。今詳此說、則謂、受降以東、至於龍門、皆是禹新開鑿。若果如此、則禹未鑿時、河之故道不知却在何處。而李氏之學極博。不知此說又何所考也。
【読み】
△河を積石より導いて、龍門に至る。南して華陰に至り、東して厎柱[しちゅう]に至り、又東して孟津に至る。東して洛汭[らくぜい]を過ぎ、大伾[たいひ]に至る。北して洚水を過ぎ、大陸に至る。又北に播[し]いて九河と爲り、同じく逆河と爲りて海に入る。積石・龍門は、雍州に見えたり。華陰は、華山の北なり。厎柱は、導山に見えたり。孟は、地の名。津は、渡る處なり。杜預が云う、河内郡河陽縣の南に在り、と。今の孟州河陽縣なり。武王の師孟津を渡るとは卽ち此れなり。今亦富平津と名づく。洛汭は、洛水交流するの内、今の河南府鞏[きょう]縣の東に在り。洛の河に入るは、實に東南に在り。河は則ち西よりして東して之を過ぐ。故に曰く、東して洛汭を過ぐ、と。大伾は、孔氏が曰く、山再び成るを伾と曰う、と。張揖以爲えらく、成皐に在り、と。鄭玄以爲えらく、脩武に在り、と。武德は臣瓚[しんさん]以爲えらく、脩武、と。武德に此の山無し。成皐山も又再び成らず。今の通利軍黎陽縣は河に臨みて山有り。蓋し大伾なり。按ずるに黎陽山は、大河の埀れて北に趨かんと欲するの地に在り。故に禹之を記す。成皐の山の若きは、旣に東より北に折[]くの地に非ず。又險礙なること龍門・厎柱の須く疏鑿すべきが如き無し。西洛汭を去りて旣已に大いに近く、東洚水・大陸を距てること、又絕遠なりとす。當に黎陽なる者を以て是とすべし。洚水は、地志に信都縣に在り、と。今の冀州信都縣の枯洚渠なり。程氏が曰く、周の時河は砱礫[れいれき]に徙[うつ]る。漢に至りて又改めて頓丘の東南に向かいて流る、と。禹の河迹と大いに相背戾す。地志に魏郡鄴[ぎょう]縣に故の大河有り、東北に在りて直に海に達す、と。疑うらくは卽ち禹の故河ならん。孟康以爲えらく、王莽河とは非なり。古の洚瀆、唐の貝州より城北を經て南宮に入り、信都を貫穿す。大抵北向して入る。故に河は信都の北に於て合うことを爲す。北して洚水を過ぐるの文は、當に信都という者を以て是とすべし。大陸は、冀州に見えたり。九河は、兗州に見えたり。逆河は、意うに海水逆潮を以て名を得。九河旣に海に淪[しず]むときは、則ち逆河は其の下流に在り、固に復有らず。河上播いて九と爲り、下同じくして一と爲る。其の分播合同、皆水勢の自然なり。禹特に順にして之を導くのみ。今按ずるに漢の西域傳に、張鶱が窮まる所の河源と云う、河に兩源有り。一つは葱嶺より出で、一つは于闐[うてん]より出づ。于闐は、南山の下[ふもと]に在り。其の河は北に流れて葱嶺の河と合う。東して蒲昌海に注ぐ。蒲昌海、一名は鹽澤なり。玉門・陽關を去ること三百餘里、其の水は停居し、冬夏增減せず、地中に潛行して、南して積石に出づ。又唐の長慶中に薛元鼎吐蕃に使いす。隴西成紀縣の西南より、塞を出づること二千餘里、河源を莫賀延磧尾に得。悶磨黎山と曰う。其の山中高く四下る。所謂崑崙なり。東北の流れは積石河と相連なる。河源は澄瑩にして、冬春涉る可し。下稍合流す。色赤きこと益々遠し。他水幷せ注ぎ遂に濁る。吐蕃も亦自ら言う、崑崙は其の國の西南に在り、と。二說恐らくは薛氏を是とす。河は積石より三千里にして、而して後に龍門に至る。經は但一に積石と書して、方向を言わず、荒遠にして略する所在り。龍門より而して下るときは、其の經る所に因る。其の北よりして南すと記すときは、則ち南して華陰に至ると曰う。其の南よりして東すと記すときは、則ち東して厎柱に至ると曰う。又詳らかに其の東向して經る所の地を記すときは、則ち孟津と曰い、洛汭と曰い、大伾と曰う。又其の東よりして北すと記すときは、則ち北して洚水を過ぐと曰う。又詳らかに其の北向して經る所の地を記すときは、則ち大陸と曰い、九河と曰う。又其の海に入る處を記すときは、則逆河と曰う。洛汭よりして上、河は山を行く。其の地皆攷[かんが]う可し。大伾よりして下、垠[ぎん]岸平地より高し。故に決齧流移し、水陸變遷して、洚水・大陸・九河・逆河、皆實を指し難し。然れども上は大伾を求め、下は碣石を得て、其の方向に因りて、其の故迹を辨ずるときは、則ち猶考う可し。其の詳悉は上の文に見えたり。○又按ずるに李復が云う、同州韓城の北に、安國嶺有り、東西四十餘里、東は大河に臨む。河に瀕して禹の廟有りて山斷[た]え河出づる處に在り。禹の龍門を鑿る、唐の張仁愿が築く所の東受降城の東より起こる。北よりして南し、此の山に至りて盡く。兩岸の石壁峭立し、大河山峽の閒に盤束す。千數百里、此に至りて山開け岸闊[ひろ]がり、豁然として奔放し、怒氣噴風、聲萬雷の如し。今按ずるに舊說に、禹龍門を鑿る。而るに其の鑿る所以を詳らかにせず、誦說相傳う。但謂う、舊に因りて修闢して其の齟齬を去りて、以て水勢を決るのみ、と。今此の說を詳らかにするに、則ち謂う、受降より以東、龍門に至るまで、皆是れ禹新たに開鑿す、と。若し果たして此の如くなれば、則ち禹未だ鑿らざる時、河の故道知らず、却って何れの處に在るかを。而れども李氏の學は極めて博し。知らず、此の說も又何れの考うる所なるかを。

△嶓冢導漾、東流爲漢。又東爲滄浪之水。過三澨、至于大別、南入于江、東匯澤爲彭蠡。東爲北江入于海。漾、水名。水經曰、漾水出隴西郡氐道縣嶓冢山、東至武都。常璩曰、漢水有兩源。此東源也。卽禹貢所謂嶓冢導漾者。其西源出隴西嶓冢山。會泉始源曰沔。逕葭萌入漢。東源在今西縣之西。西源在今三泉縣之東也。酈道元謂、東西兩川、倶出嶓冢、而同爲漢水者是也。水源發于嶓冢爲漾、至武都爲漢。又東流爲滄浪之水。酈道元云、武當縣北四十里、漢水中有洲曰滄浪洲、水曰滄浪水是也。蓋水之經歷、隨地得名。謂之爲者、明非他水也。三澨、水名。今郢州長壽縣磨石山、發源東南流者名澨水。至復州景陵縣界來、又名汊水。疑卽三澨之一。然據左傳漳澨・薳澨、則爲水際未可曉也。大別、見導山。入江、在今漢陽軍漢陽縣。匯、廻也。彭蠡、見揚州。北江未詳。入海、在今通州靜海縣。○今按彭蠡、古今記載、皆謂今之番陽。然其澤在江之南、去漢水入江之處、已七百餘里、所蓄之水、則合饒・信徽・撫吉・贑・南安・建昌・臨江・袁筠・隆興・南康・數州之流、非自漢入而爲匯者。又其入江之處、西則廬阜、東則湖口、皆石山峙立、水道狹甚。不應漢水入江之後、七百餘里。乃橫截而南入于番陽、又橫截而北流爲北江、且番陽合數州之流、豬而爲澤、泛溢壅遏、初無仰於江・漢之匯而後成也。不惟無所仰於江・漢、而衆流之積、日遏月高勢亦不復容江・漢之來入矣。今湖口橫渡之處、其北則江・漢之濁流、其南則番陽之淸漲。不見所謂漢水匯澤而爲彭蠡者。番陽之水、旣出湖口、則依南岸與大江、相持以東。又不見所謂橫截而爲北江者。又以經文考之、則今之彭蠡、旣在大江之南。於經則宜曰南匯彭蠡、不應曰東匯。於導江則宜曰南會于匯、不應曰北會于匯。匯旣在南。於經則宜曰北爲北江、不應曰東爲北江。以今地望參校、絕爲反戾。今廬江之北、有所謂巢湖者、湖大而源淺。每歲四五月閒、蜀嶺雪消、大江泛溢之時、水淤入湖。至七八月、大江水落、湖水方洩、隨江以東。爲合東匯北匯之文。然番陽之湖、方五六百里、不應舍此而錄彼、記其小而遺其大也。蓋嘗以事理情勢考之、洪水之患、惟河爲甚。意當時龍門・九河等處、事急民困。勢重役煩。禹親莅而身督之。若江・淮則地徧水急。不待疏鑿、固已通行。或分遣官屬往視亦可。況洞庭・彭蠡之閒、乃三苗所居。水澤山林、深昧不測。彼方負其險阻、頑不卽工、則官屬之往者、亦未必遽敢深入。是以但知彭蠡之爲澤、而不知其非漢水所匯。但意如巢湖・江水之淤、而不知彭蠡之源爲甚衆也。以此致誤。謂之爲匯、謂之爲北江、無足恠者。然則番陽之爲彭蠡信矣。
【読み】
△嶓冢[はちょう]より漾[よう]を導いて、東に流れて漢と爲る。又東して滄浪の水と爲る。三澨[さんぜい]を過ぎて、大別に至り、南して江に入り、東して澤を匯[めぐ]りて彭蠡[ほうれい]と爲る。東して北江と爲りて海に入る。漾は、水の名。水經に曰く、漾水は隴西郡氐道[ていどう]縣の嶓冢山より出でて、東して武都に至る、と。常璩[じょうきょ]が曰く、漢水に兩源有り。此れ東源なり。卽ち禹貢に所謂嶓冢より漾を導く者なり。其の西源は隴西の嶓冢山より出づ。會泉の始源を沔[べん]と曰う。葭萌[かぼう]を逕て漢に入る、と。東源は今の西縣の西に在り。西源は今の三泉縣の東に在り。酈道元が謂う、東西の兩川は、倶に嶓冢より出でて、同じく漢水と爲るという者是れなり。水源の嶓冢より發して漾と爲り、武都に至りて漢と爲る。又東流して滄浪の水と爲る。酈道元が云う、武當縣の北四十里、漢水の中に洲有るを滄浪洲と曰い、水を滄浪水と曰うは是れなり。蓋し水の經歷は、地に隨いて名を得。之を爲ると謂う者は、明らかに他の水に非ざればなり。三澨は、水の名。今の郢[えい]州長壽縣の磨石山、源を東南の流に發する者を澨水と名づく。復州景陵縣の界に至りて來るを、又汊水[さすい]と名づく。疑うらくは卽ち三澨の一つならん。然れども左傳の漳澨・薳澨[いぜい]に據るときは、則ち水際爲ること未だ曉る可からず。大別は、導山に見えたり。入江は、今の漢陽軍漢陽縣に在り。匯[かい]は、廻るなり。彭蠡は、揚州に見えたり。北江は未だ詳らかならず。入海は、今の通州靜海縣に在り。○今按ずるに彭蠡は、古今の記載に、皆今の番陽と謂う。然れども其の澤は江の南に在り、漢水を去りて江に入るの處、已に七百餘里、蓄うる所の水は、則ち合饒・信徽・撫吉・贑[かん]・南安・建昌・臨江・袁筠[えんいん]・隆興・南康・數州の流にて、漢より入りて匯と爲る者に非ず。又其の江に入るの處は、西には則ち廬阜、東には則ち湖口あり、皆石山峙[そばだ]ち立ちて、水道狹きこと甚だし。應に漢水江に入るの後、七百餘里なるべからず。乃ち橫截して南して番陽に入り、又橫截して北流して北江と爲り、且つ番陽數州の流を合わせて、豬して澤と爲り、泛溢壅遏[ようあつ]して、初めて江・漢の匯りて而して後に成さんことを仰ぐこと無し。惟江・漢を仰ぐ所無きのみにあらずして、衆流の積も、日に遏[や]み月に高くして勢いも亦復江・漢の來り入ることを容れず。今湖口橫渡の處、其の北は則ち江・漢の濁流、其の南は則ち番陽の淸漲なり。所謂漢水の匯れる澤ありて彭蠡と爲る者を見ず。番陽の水、旣に湖口を出づるときは、則ち南岸と大江とに依りて、相持して以て東す。又所謂橫截して北江と爲る者を見ず。又經文を以て之を考うれば、則ち今の彭蠡は、旣に大江の南に在り。經に於ては則ち宜しく南して匯れる彭蠡と曰うべく、應に東して匯ると曰うべからず。導江に於ては則ち宜しく南して匯に會すと曰うべく、應に北して匯に會すと曰うべからず。匯は旣に南に在り。經に於ては則ち宜しく北して北江と爲ると曰うべく、應に東して北江と爲ると曰うべからず。今の地望を以て參校すれば、絕[はなは]だ反戾を爲す。今廬江の北に、所謂巢湖なる者有り、湖大いにして源淺し。每歲四五月の閒は、蜀嶺雪消えて、大江泛溢するの時にて、水淤[すいよ]湖に入る。七八月に至りて、大江水落ちて、湖水方に洩[まじわ]り、江に隨いて以て東す。東匯北匯の文に合うとす。然れども番陽の湖は、方五六百里、應に此を舍てて彼を錄し、其小なるを記して其の大なるを遺つべからず。蓋し嘗て事理情勢を以て之を考うるに、洪水の患えは、惟れ河を甚だしとす。意うに當時の龍門・九河等の處は、事急にして民困しむ。勢重く役煩[はげ]し。禹親ら莅んで身ら之を督[ただ]す。江・淮の若きは則ち地徧に水急なり。疏鑿するを待たずして、固に已に通行す。或は官屬を分遣して往いて視るも亦可なり。況んや洞庭・彭蠡の閒は、乃ち三苗の居る所。水澤山林、深昧不測なり。彼れ方に其の險阻を負いて、頑にして工に卽かざるときは、則ち官屬の往く者も、亦未だ必ずしも遽に敢えて深く入らず。是を以て但彭蠡の澤と爲ることを知りて、其の漢水の匯れる所に非ざることを知らず。但意うに巢湖・江水の淤の如くにして、而も彭蠡の源甚だ衆しとすることを知らず。此を以て誤りを致す。之を謂いて匯とし、之を謂いて北江とすれば、恠[あや]しむに足る者無し。然らば則ち番陽の彭蠡爲ること信なり。

△岷山導江、東別爲沱。又東至于澧、過九江、至于東陵。東迆北會于匯、東爲中江入于海。沱、江之別流於梁者也。澧、水名。水經出武陵充縣。西至長沙下雋縣西北入江。鄭氏曰、經言道言會者、水也。言至者、或山或澤也。澧、宜山澤之名。按下文九江、澧水旣與其一、則非水明矣。九江、見荆州。東陵、巴陵也。今岳州巴陵縣也。地志在廬江西北者非是。會匯・中江、見上章。
【読み】
△岷山[びんざん]より江を導いて、東に別れて沱[た]と爲る。又東して澧[れい]に至り、九江を過ぎて、東陵に至る。東に迆[なな]めに北して匯[かい]に會し、東して中江と爲りて海に入る。沱は、江の梁に別れ流るる者なり。澧は、水の名。水經に武陵充縣に出づ。西して長沙下雋[かすい]縣の西北に至り江に入る、と。鄭氏が曰く、經に道くと言い會すと言う者は、水なり。至ると言う者は、或は山或は澤なり。澧は、宜しく山澤の名なるべし。下の文の九江を按ずるに、澧水旣に其の一つに與るときは、則ち水に非ざること明らかなり、と。九江は、荆州に見えたり。東陵は、巴陵なり。今の岳州巴陵縣なり。地志に廬江の西北に在りという者は是に非ず。會匯・中江は、上の章に見えたり。

△導沇水、東流爲濟入于河。溢爲滎、東出于陶丘北。又東至于菏、又東北會于汶。又北東入于海。沇水、濟水也。發源爲沇。旣東爲濟。地志云、濟水出河東郡垣曲縣王屋山東南。今絳州垣曲縣山也。始發源王屋山頂崖下曰沇水、旣見而伏、東出於今孟州濟源縣。二源。東源周廻七百步、其深不測。西源周廻六百八十五步、其深一丈。合流至溫縣。是爲濟水。歷虢公臺西南入于河。溢、滿也。復出河之南、溢而爲滎。滎卽滎波之滎。見豫州。又東出於陶丘北。陶丘、地名。再成曰陶。在今廣濟軍西。又東至于菏。菏、卽菏澤。亦見豫州。謂之至者、濟陰縣自有菏派、濟流至其地爾。汶、北汶也。見靑州。又東北至于東平府壽張縣安民亭、合汶水、至今靑州博興縣入海。唐李賢謂、濟自鄭以東、貫滑・曹・鄆・濟・齊・靑、以入于海。本朝樂史謂、今東平・濟南・緇川・北海界中有水流入海、謂之淸河。酈道元謂、濟水當王莽之世、川瀆枯竭。其後水流逕通、津渠勢改。尋梁脈水、不與昔同。然則滎澤濟河雖枯、而濟水未嘗絕流也。程氏曰、滎水之爲濟、本無他義。濟之入河、適會河滿、溢出南岸。溢出者非濟水。因濟而溢。故禹還以元名命之。按程氏言溢之一字、固爲有理。然出於河南者旣非濟水、則禹不應以河枝流、而冒稱爲濟。蓋溢者指滎而言、非指河也。且河濁而滎淸、則滎之水、非河之溢明矣。況經所書、單立導沇條例、若斷若續。而實有源流、或見或伏而脈絡可考。先儒皆以濟水性下勁疾、故能入河穴地、流注顯伏。南豐曾氏齊州二堂記云、泰山之北、與齊之東南諸谷之水、西北匯于黑水之灣、又西北匯于柏崖之灣、而至于渴馬之崖。蓋水之來也衆。其北折而西也、悍疾尤甚。及至于崖下、則泊然而止。而自崖以北、至于歷城之西、蓋五十里而有泉湧出。高或致數尺。其旁之人、名之曰趵突之泉。齊人皆謂、嘗有棄糠於黑水之灣者、而見之於此。蓋泉自渴馬之崖、潛流地中、而至此復出也。其注而北、則謂之濼水、達于淸河以入于海。舟之通於濟者、皆於是乎達也。齊多甘泉。其顯名者十數、而色味皆同。以余驗之、蓋皆濼水之旁出者也。然則水之伏流地中、固多有之。奚獨於滎澤疑哉。吳興沈氏亦言、古說濟水伏流地中。今歷下凡發地、皆是流水。世謂濟水經過其下。東阿亦濟所經。取其井水煮膠、謂之阿膠。用攪濁水則淸。人服之下膈疏痰。蓋其水性趨下、淸而重故也。濟水伏流絕河、乃其物性之常、事理之著者。程氏非之。顧弗深考耳。
【読み】
△沇水[いんすい]を導いて、東に流れて濟と爲りて河に入る。溢れて滎[けい]と爲り、東して陶丘の北に出づ。又東して菏[か]に至り、又東北して汶に會す。又北東して海に入る。沇水は、濟水なり。源を發するを沇とす。旣に東するを濟とす。地志に云う、濟水は河東郡垣曲縣の王屋山の東南より出づ、と。今の絳[こう]州垣曲縣の山なり。始めて源を王屋の山頂崖下に發するを沇水と曰い、旣に見れて伏して、東して今の孟州濟源縣より出づ。二源あり。東源は周廻七百步、其の深さ測られず。西源は周廻六百八十五步、其の深さ一丈。合流して溫縣に至る。是を濟水とす。虢[かく]公臺を歷て西南して河に入る。溢は、滿つるなり。復河の南に出でて、溢れて滎となる。滎は卽ち滎波の滎なり。豫州に見えたり。又東して陶丘の北に出づ。陶丘は、地の名。再成を陶と曰う。今の廣濟軍の西に在り。又東して菏に至る。菏は、卽ち菏澤なり。亦豫州に見えたり。之を至ると謂うは、濟陰縣に自ずから菏派有り、濟流は其の地に至るのみ。汶は、北汶なり。靑州に見えたり。又東北して東平府壽張縣の安民亭に至りて、汶水に合い、今の靑州博興縣に至りて海に入る。唐の李賢が謂う、濟は鄭より以東、滑・曹・鄆[うん]・濟・齊・靑を貫いて、以て海に入る、と。本朝の樂史が謂う、今の東平・濟南・緇川・北海の界中に水流有りて海に入る、之を淸河と謂う、と。酈道元が謂う、濟水は王莽が世に當たりて、川瀆枯竭す。其の後水流逕通し、津渠勢い改まれり。梁の脈水を尋ぬるに、昔と同じからず。然らば則ち滎澤濟河枯るると雖も、而れども濟水は未だ嘗て流れを絕えず、と。程氏が曰く、滎水の濟と爲るは、本他義無し。濟の河に入るは、適々河滿つるに會いて、南岸に溢れ出づ。溢れ出づる者は濟水に非ず。濟に因りて溢る。故に禹還って元の名を以て之に命づく、と。按ずるに程氏溢の一字を言うは、固に理有りとす。然れども河南より出づる者旣に濟水に非ざるときは、則ち禹應に河の枝流を以てして、冒し稱して濟とすべからず。蓋し溢るとは滎を指して言い、河を指すに非ず。且つ河濁りて滎淸めば、則ち滎の水は、河の溢るるに非ざること明らかなり。況んや經に書す所は、單に導沇條例を立つこと、斷つが若く續ぐが若し。而して實に源流有り、或は見れ或は伏して脈絡考う可し。先儒皆濟水性下り勁疾[けいしつ]なるを以て、故に能く河穴の地に入りて、流注顯伏す、と。南豐の曾氏が齊州二堂の記に云う、泰山の北と、齊の東南諸谷の水と、西北して黑水の灣を匯[めぐ]り、又西北して柏崖の灣を匯りて、渴馬の崖に至る。蓋し水の來ること衆し。其の北に折れて西するや、悍疾なること尤も甚だし。崖下に至るに及んで、則ち泊然として止まる。而して崖より以北、歷城の西に至ること、蓋し五十里にして泉有りて湧き出づ。高きこと或は數尺を致す。其の旁らの人、之を名づけて趵突[はくとつ]の泉と曰う。齊人皆謂う、嘗て糠を黑水の灣に棄つる者有りて、之を此に見る、と。蓋し泉渴馬の崖より、地中を潛流して、此に至りて復出づるなり、と。其の注いで北するときは、則ち之を濼水と謂い、淸河に達して以て海に入る。舟の濟に通ずる者、皆是に於て達するなり。齊に甘泉多し。其の名を顯す者十數にして、色味皆同じ。余を以て之を驗すに、蓋し皆濼水の旁らに出づる者なり。然らば則ち水の地中を伏流する、固に多く之れ有り。奚ぞ獨り滎澤に於て疑わんや。吳興の沈氏も亦言う、古說に濟水は地中を伏流す、と。今の歷下凡そ地を發するは、皆是の流水なり。世に謂う、濟水其の下を經過す、と。東阿も亦濟の經る所なり。其の井水を取りて膠を煮る、之を阿膠と謂う。用て濁水を攪[か]くときは則ち淸し。人之を服すれば膈[かく]を下し痰を疏[とお]す。蓋し其水の性下に趨りて、淸くして重きが故なり。濟水伏流して河を絕つは、乃ち其の物性の常、事理の著る者なり、と。程氏之を非とす。顧[おも]うに深く考えざるのみ。

△導淮自桐柏。東會于泗・沂、東入于海。水經云、淮水出南陽平氏縣胎簪山。禹只自桐柏導之耳。桐柏、見導山。泗・沂、見徐州。沂入于泗、泗入于淮。此言會者、以二水相敵故也。入海、在今淮浦。
【読み】
△淮を導くこと桐柏よりす。東して泗・沂[き]に會して、東して海に入る。水經に云う、淮水は南陽平氏縣の胎簪山[たいしんざん]より出づ、と。禹は只桐柏より之を導くのみ。桐柏は、導山に見えたり。泗・沂は、徐州に見えたり。沂は泗に入り、泗は淮に入る。此に會と言うは、二水相敵するを以て故なり。海に入るは、今の淮浦に在り。

△導渭自鳥鼠・同穴。東會于灃、又東會于涇、又東過漆・沮入于河。同穴、山名。地志云、鳥鼠山者、同穴之枝山也。餘竝見雍州。孔氏曰、鳥鼠共爲雌雄、同穴而處。其說怪誕不經、不足信也。酈道元云、渭水出南谷山、在鳥鼠山西北。禹只自鳥鼠・同穴導之耳。
【読み】
△渭を導くこと鳥鼠・同穴よりす。東して灃[ほう]に會し、又東して涇に會し、又東して漆・沮を過ぎて河に入る。同穴は、山の名。地志に云う、鳥鼠山は、同穴の枝山なり、と。餘は竝[みな]雍州に見えたり。孔氏が曰く、鳥鼠共に雌雄を爲して、穴を同じくして處る、と。其の說怪誕不經にて、信ずるに足らず。酈道元が云う、渭水は南谷山を出でて、鳥鼠山の西北に在り。禹は只鳥鼠・同穴より之を導くのみ、と。

△導洛自熊耳。東北會于澗・瀍、又東會于伊、又東北入于河。熊耳、廬氏之熊耳也。餘竝見豫州。洛水、出冢嶺山。禹只自熊耳導之耳。○按經言、嶓冢導漾、岷山導江者、漾之源出於嶓、江之源出於岷。故先言山而後言水也。言導河積石、導淮自桐柏、導渭自鳥鼠・同穴、導洛自熊耳、皆非出於其山。特自其山以導之耳。故先言水而後言山也。河不言自者、河源多伏流。積石其見處。故言積石而不言自也。沇水不言山者、流水伏流、其出非一。故不誌其源也。弱水・黑水不言山者、九州之外、蓋略之也。小水合大水、謂之入。大水合小水、謂之過。二水勢均相入、謂之會。天下之水、莫大於河。故於河不言會。此禹貢立言之法也。
【読み】
△洛を導くこと熊耳よりす。東北して澗・瀍[てん]に會し、又東して伊に會し、又東北して河に入る。熊耳は、廬氏の熊耳なり。餘は竝[みな]豫州に見えたり。洛水は、冢嶺山より出づ。禹は只熊耳より之を導くのみ。○按ずるに經に言う、嶓冢[はちょう]より漾を導き、岷山より江を導くは、漾の源は嶓より出で、江の源は岷より出づ。故に先ず山を言いて而して後に水を言うなり。河を積石より導き、淮を導くこと桐柏よりし、渭を導くこと鳥鼠・同穴よりし、洛を導くこと熊耳よりすと言うは、皆其の山より出づるに非ず。特に其の山より以て之を導くのみ。故に先ず水を言いて而して後に山を言うなり。河の自と言わざるは、河源は伏流多し。積石は其の見る處なり。故に積石を言いて自と言わざるなり。沇水の山を言わざるは、流水の伏流、其の出づること一つに非ず。故に其の源を誌さざるなり。弱水・黑水の山を言わざるは、九州の外、蓋し之を略せり。小水の大水に合う、之を入と謂う。大水の小水に合う、之を過と謂う。二水勢均しく相入る、之を會と謂う。天下の水、河より大なるは莫し。故に河に於ては會を言わず。此れ禹貢立言の法なり。

△九州攸同、四隩旣宅、九山刋旅、九川滌源、九澤旣陂。四海會同。隩、隈也。李氏曰、涯内近水爲隩。陂、障也。會同、與灉・沮會同同義。四海之隩、水涯之地已可奠居。九州之山、槎木通道已可祭告。九州之川、濬滌泉源而無壅遏。九州之澤、已有陂障而無決潰。四海之水、無不會同而各有所歸。此蓋總結上文。言九州・四海、水土無不平治也。
【読み】
△九州の同[ひと]しき攸、四隩[おう]旣に宅り、九山刋[き]りて旅し、九川源を滌[ふか]くし、九澤旣に陂す。四海會同す。隩は、隈なり。李氏が曰く、涯の内水に近きを隩とす、と。陂は、障[つつみ]なり。會同は、灉[よう]・沮會同すと義を同じくす。四海の隩、水涯の地已に奠[さだ]め居る可し。九州の山、木を槎[き]り道を通じて已に祭告す可し。九州の川、泉源を濬滌[しゅんでき]して壅遏[ようあつ]無し。九州の澤、已に陂障有りて決潰無し。四海の水、會同して各々歸する所有らざる無し。此れ蓋し總べて上の文を結べり。言うこころは、九州・四海、水土平治せざること無し。

△六府孔修、庶土交正、厎愼財賦、咸則三壤、成賦中邦。孔、大也。水・火・金・木・土・穀皆大修治也。土者、財之自生。謂之庶土、則非特穀土也。庶土有等、當以肥瘠高下名物交相正焉、以任土事。厎、致也。因庶土所出之財、而致謹其財賦之入。如周大司徒、以土宜之法、辨十有二土之名物、以任土事之類。咸、皆也。則、品節之也。九州穀土、又皆品節之、以上中下三等。如周大司徒、辨十有二壤之名物、以致稼穡之類。中邦、中國也。蓋土賦或及於四夷、而田賦則止於中國而已。故曰成賦中邦。
【読み】
△六府孔だ修まり、庶土交々正しく、財賦を厎[いた]し愼み、咸三壤に則り、賦を中邦に成せり。孔は、大いなり。水・火・金・木・土・穀皆大いに修まり治まるなり。土は財の自ずから生るなり。之を庶土と謂うときは、則ち特に穀土のみに非ず。庶土は等有り、當に肥瘠高下名物を以て交々相正して、以て土の事に任ずべし。厎[し]は、致すなり。庶土出だす所の財に因りて、其の財賦の入るを致し謹む。周の大司徒、土宜の法を以て、十有二土の名物を辨ちて、以て土の事を任ずるの類の如し。咸は、皆なり。則は、之を品節するなり。九州の穀土も、又皆之を品節するに、上中下三等を以てす。周の大司徒、十有二壤の名物を辨ちて、以て稼穡を致すの類の如し。中邦は、中國なり。蓋し土賦或は四夷に及んで、田賦は則ち中國に止むるのみ。故に賦を中邦に成すと曰う。

△錫土姓。錫土姓者、言錫之土以立國、錫之姓以立宗。左傳所謂天子建德。因生以賜姓。胙之土而命之氏者也。
【読み】
△土姓を錫う。土姓を錫うとは、言うこころは、之に土を錫いて以て國を立て、之に姓を錫いて以て宗を立つなり。左傳に所謂天子德を建つ。生に因りて以て姓を賜う。之に土を胙[たま]いて之に氏を命ずという者なり。

△祗台德先、不距朕行。台、我。距、違也。禹平水土、定土賦建諸侯、治已定功已成矣。當此之時、惟敬德以先天下、則天下自不能違越我之所行也。
【読み】
△台[わ]が德を祗[つつし]んで先だつときは、朕が行うことに距[たが]わず。台は、我。距は、違うなり。禹水土を平らげ、土賦を定めて諸侯建てば、治已に定まり功已に成れり。此の時に當たりて、惟德を敬んで以て天下に先だつときは、則ち天下自ずから我が行う所に違越すること能わざるなり。

△五百里甸服。百里賦納總、二百里納銍、三百里納秸服。四百里粟、五百里米。甸服、畿内之地也。甸、田。服、事也。以皆田賦之事。故謂之甸服。五百里者、王城之外、四面皆五百里也。禾本全曰總。刈禾曰銍。半藁也。半藁去皮曰秸。謂之服者、三百里内去王城爲近。非惟納總・銍・秸、而又使之服輸將之事也。獨於秸言之者、總前二者而言也。粟、穀也。内百里爲最近。故幷禾本總賦之。外百里次之、只刈禾半藁納也。外百里又次之、去藁麤皮納也。外百里爲遠。去其穂而納穀。外百里爲尤遠。去其穀而納米。蓋量其地之遠近、而爲納賦之輕重精麤也。此分甸服五百里、而爲五等者也。
【読み】
△五百里は甸服[でんふく]。百里は賦總を納れ、二百里は銍[ちつ]を納れ、三百里は秸[かつ]を納れ服す。四百里は粟、五百里は米。甸服は、畿内の地なり。甸は、田。服は、事なり。皆田賦の事を以てす。故に之を甸服と謂う。五百里は、王城の外、四面皆五百里なり。禾[いね]本全きを總と曰う。禾を刈るを銍と曰う。半藁なり。半藁の皮を去るを秸と曰う。之を服すと謂うは、三百里の内は王城を去ること近しとす。惟總・銍・秸を納むるのみに非ずして、又之をして輸將の事に服せしむ。獨り秸に於て之を言うは、前の二つの者を總べて言うなり。粟は、穀なり。内百里は最も近しとす。故に禾本を幷せて總べて之を賦す。外百里は之に次ぎ、只刈れる禾半藁を納るるなり。外百里も又之に次ぎ、藁麤皮を去りて納るるなり。外百里を遠しとす。其の穂を去りて穀を納る。外百里を尤も遠しとす。其の穀を去りて米を納る。蓋し其の地の遠近を量りて、納賦の輕重精麤を爲すなり。此れ甸服五百里を分かちて、五等とする者なり。

△五百里侯服。百里采、二百里男邦、三百里諸侯。侯服者、侯國之服。甸服外四面又各五百里也。采者、卿大夫邑地。男邦、男爵小國也。諸侯、諸侯之爵、大國次國也。先小國而後大國者、大可以禦外侮、小得以安内附也。此分侯服五百里、而爲三等也。
【読み】
△五百里は侯服。百里は采、二百里は男邦、三百里は諸侯。侯服は、侯國の服なり。甸服の外の四面も又各々五百里なり。采は、卿大夫の邑地。男邦は、男爵の小國なり。諸侯は、諸侯の爵、大國次國なり。小國を先にして大國を後にするは、大は以て外侮を禦ぐ可く、小は以て内附を安んずるを得るなり。此れ侯服五百里を分かちて、三等とするなり。

△五百里綏服。三百里揆文敎、二百里奮武衛。綏、安也。謂之綏者、漸遠王畿、而取撫安之義。侯服外四面又各五百里也。揆、度也。綏服内取王城千里、外取荒服千里、介於内外之閒。故以内三百里揆文敎、外二百里奮武衛。文以治内、武以治外、聖人所以嚴華夏之辨者如此。此分綏服五百里、而爲二等也。
【読み】
△五百里は綏服[すいふく]。三百里は文敎を揆[はか]り、二百里は武衛を奮う。綏は、安んずるなり。之を綏と謂うは、漸く王畿に遠くして、撫安の義を取るなり。侯服の外の四面も又各々五百里なり。揆は、度るなり。綏服の内は王城千里を取り、外は荒服千里を取り、内外の閒を介[わけ]る。故に内三百里を以て文敎を揆り、外二百里は武衛を奮う。文以て内を治め、武以て外を治むる、聖人華夏の辨を嚴にする所以の者此の如し。此れ綏服五百里を分かちて、二等とするなり。

△五百里要服。三百里夷、二百里蔡。要服、去王畿已遠。皆夷狄之地。其文法略於中國。謂之要者、取要約之義、特羈縻之而已。綏服外四面又各五百里也。蔡、放也。左傳云、蔡蔡叔是也。流放罪人於此也。此分要服五百里、而爲二等也。
【読み】
△五百里は要服。三百里は夷、二百里は蔡。要服は、王畿を去ること已に遠し。皆夷狄の地なり。其の文法は中國を略す。之を要と謂うは、要約の義を取り、特に之を羈縻[きび]するのみ。綏服の外の四面も又各々五百里なり。蔡は、放つなり。左傳に云う、蔡叔を蔡[はな]つとは是れなり。罪人を此に流放するなり。此れ要服五百里を分かちて、二等とするなり。

△五百里荒服。三百里蠻、二百里流。荒服、去王畿益遠、而經略之者、視要服爲尤略也。以其荒野、故謂之荒服。要服外四面又各五百里也。流、流放罪人之地。蔡與流皆所以處罪人、而罪有輕重。故地有遠近之別也。此分荒服五百里、而爲二等也。○今按每服五百里、五服則二千五百里、南北東西相距五千里。故益稷篇言、弼成五服、至于五千。然堯都冀州。冀之北境、幷雲中・涿・易、亦恐無二千五百里。藉使有之、亦皆沙漠不毛之地、而東南財賦所出、則反棄於要荒。以地勢考之、殊未可曉。但意古今土地盛衰不同。當舜之時、冀北之地未必荒落如後世耳。亦猶閩・浙之閒、舊爲蠻夷淵藪、而今富庶繁衍、遂爲上國。土地興廢、不可以一時槩也。周制九畿、曰侯・甸・男・采・衛・蠻・夷・鎭・藩。每畿亦五百里、而王畿又不在其中、倂之則一方五千里、四方相距爲萬里。蓋倍禹服之數也。漢地志亦言、東西九千里、南北一萬二千里。先儒皆疑、禹服之狹、而周漢地廣。或以周服里數、皆以方言。或以古今尺有長短。或以禹直方計。而後世以人迹屈曲取之。要之皆非的論。蓋禹聲敎所及、則地盡四海、而其疆理、則止以五服爲制、至荒服之外、又別爲區畫。如所謂咸建五長是已。若周漢則盡其地之所至、而疆畫之也。
【読み】
△五百里は荒服。三百里は蠻、二百里は流。荒服は、王畿を去ること益々遠くして、之を經略する者は、要服に視[くら]ぶれば尤も略なりとす。其の荒野なるを以て、故に之を荒服と謂う。要服の外の四面も又各々五百里なり。流は、罪人を流放するの地なり。蔡と流とは皆罪人を處く所以にして、罪に輕重有り。故に地に遠近の別有り。此れ荒服五百里を分かちて、二等とするなり。○今按ずるに每服五百里、五服は則ち二千五百里、南北東西相距てること五千里。故に益稷の篇に言う、五服を弼成して、五千に至る、と。然れども堯は冀州に都す。冀の北境、幷[雲中・涿・易なるも、亦恐らくは二千五百里無からん。藉使[たとい]之れ有るも、亦皆沙漠不毛の地にして、東南財賦の出づる所は、則ち反って要荒を棄つ。地勢を以て之を考うるに、殊に未だ曉る可からず。但意うに古今土地の盛衰同じからず。舜の時に當たりて、冀北の地は未だ必ずしも荒落すること後世の如くならざるのみ。亦猶閩[びん]・浙の閒、舊蠻夷の淵藪と爲りて、今富庶繁衍して、遂に上國と爲る。土地の興廢は、一時を以て槩[はか]る可からず。周の制に九畿あり、曰く侯・甸・男・采・衛・蠻・夷・鎭・藩、と。每畿亦五百里にして、王畿は又其の中に在らず、之を倂するときは則ち一方五千里、四方相距てること萬里と爲る。蓋し禹服の數に倍せり。漢の地志にも亦言う、東西九千里、南北一萬二千里、と。先儒皆疑う、禹服の狹くして、周漢の地廣し、と。或は周は服里の數を以てするに、皆方を以て言う、と。或は古今尺に長短有るを以てす、と。或は禹は直方を以て計る、と。而して後世人迹の屈曲を以て之を取る。之を要するに皆的論に非ず。蓋し禹の聲敎の及ぶ所は、則ち地四海を盡くして、其の疆理は、則ち止に五服を以て制とし、荒服の外に至りては、又別に區畫を爲す。所謂咸五長を建つるが如き是れのみ。周漢の若きは則ち其の地の至る所を盡くして、之を疆畫す。

△東漸于海、西被于流沙、朔南曁聲敎、訖于四海。禹錫玄圭、告厥成功。漸、漬。被、覆。曁、及也。地有遠近。故言有淺深也。聲、謂風聲。敎、謂敎化。林氏曰、振舉於此、而遠者聞焉。故謂之聲。軌範於此、而遠者效焉。故謂之敎。上言五服之制、此言聲敎所及。蓋法制有限、而敎化無窮也。錫、與師錫之錫同。水土旣平、禹以玄圭爲贄、而告成功于舜也。水色黑。故圭以玄云。
【読み】
△東は海を漸[ひた]し、西は流沙を被い、朔[きた]南に聲敎を曁[およ]ぼし、四海に訖[いた]る。禹玄圭を錫[あた]えて、厥の成功を告[もう]す。漸は、漬す。被は、覆う。曁は、及ぶなり。地に遠近有り。故に言に淺深有り。聲は、謂ゆる風聲なり。敎は、謂ゆる敎化なり。林氏が曰く、此に振舉して、遠き者焉を聞く。故に之を聲と謂う。此に軌範して、遠き者焉に效う。故に之を敎と謂う、と。上には五服の制を言い、此には聲敎の及ぶ所を言う。蓋し法制は限り有りて、敎化は窮まり無し。錫は、師錫の錫と同じ。水土旣に平らいで、禹玄圭を以て贄として、成功を舜に告す。水の色は黑し。故に圭も玄[くろ]きを以て云う。


甘誓 甘、地名。有扈氏國之南郊也。在扶風鄠縣。誓、與禹征苗之誓同義。言其討叛伐罪之意。嚴其坐作進退之節。所以一衆志而起其怠也。誓師于甘。故以甘誓名篇。書有六體、誓其一也。今文古文皆有。○按有扈、夏同姓之國。史記曰、啓立、有扈不服。遂滅之。唐孔氏因謂、堯舜受禪、啓獨繼父。以是不服。亦臆度之見耳。左傳昭公元年、趙孟曰、虞有三苗、夏有觀・扈、商有姺・邳、周有徐・奄。則有扈亦三苗徐奄之類也。
【読み】
甘誓[かんせい] 甘は、地の名。有扈[ゆうこ]氏の國の南郊なり。扶風鄠[こ]縣に在り。誓は、禹苗を征するの誓いと義を同じくす。其の叛くを討ち罪あるを伐つの意を言う。其の坐作進退の節を嚴にす。衆の志を一にして其の怠[たゆ]むを起こす所以なり。師に甘に誓う。故に甘誓を以て篇に名づく。書に六體有り、誓は其の一つなり。今文古文皆有り。○按ずるに有扈は、夏の同姓の國なり。史記に曰く、啓立ちて、有扈服せず。遂に之を滅ぼす、と。唐の孔氏因りて謂う、堯舜は禪を受け、啓獨り父に繼ぐ。是を以て服せず、と。亦臆度の見なるのみ。左傳昭公元年に、趙孟が曰く、虞に三苗有り、夏に觀・扈有り、商に姺[せん]・邳[ひ]有り、周に徐・奄[えん]有り、と。則ち有扈も亦三苗徐奄の類なり。


大戰于甘。乃召六卿。六卿、六卿之卿也。按周禮卿大夫、每郷卿一人。六郷、六卿。平居無事、則各掌其郷之政敎禁令、而屬於大司徒。有事出征、則各率其郷之一萬二千五百人、而屬於大司馬。所謂軍將皆卿者是也。意夏制亦如此。古者四方有變、專責之方伯。方伯不能討、然後天子親征之。天子之兵、有征無戰。今啓旣親率六軍以出、而又書大戰于甘、則有扈之怙强稔惡、敢與天子抗衡。豈特孟子所謂六師移之者。書曰大戰。蓋所以深著有扈不臣之罪、而爲天下後世諸侯之戒也。
【読み】
大いに甘に戰う。乃ち六卿を召す。六卿は、六卿の卿なり。按ずるに周禮の卿大夫、郷每に卿一人。六郷は、六卿なり。平居無事なるときは、則ち各々其の郷の政敎禁令を掌りて、大司徒に屬す。事有りて出征するときは、則ち各々其の郷の一萬二千五百人を率いて、大司馬に屬す。所謂軍將は皆卿というは是れなり。意うに夏の制も亦此の如し。古には四方變有るときは、專ら之を方伯に責む。方伯討ずること能わず、然して後に天子親ら之を征す。天子の兵は、征有りて戰無し。今啓旣に親ら六軍を率いて以て出でて、又大いに甘に戰うと書せば、則ち有扈の强を怙[たの]み惡を稔[つ]んで、敢えて天子と抗衡す。豈特に孟子の所謂六師之を移す者ならんや。書して曰く大いに戰う、と。蓋し深く有扈不臣の罪を著す所以にして、天下後世諸侯の戒めとするなり。

△王曰、嗟六事之人、予誓告汝。重其事。故嗟歎而告之。六事者、非但六卿。有事於六軍者皆是也。
【読み】
△王曰く、嗟[ああ]六事の人、予れ誓いて汝に告ぐ。其の事を重んず。故に嗟歎して之に告ぐ。六事は、但六卿のみに非ず。六軍に事とすること有る者は皆是れなり。

△有扈氏、威侮五行、怠棄三正。天用勦絕其命。今予惟恭行天之罰。威、暴殄之也。侮、輕忽之也。鯀汨五行而殛死。況於威侮之者乎。三正、子・丑・寅之正也。夏正建寅。怠棄者、不用正朔也。有扈氏暴殄天物、輕忽不敬、廢棄正朔、虐下背上、獲罪于天。天用勦絕其命。今我伐之。惟敬行天之罰而已。今按此章、則三正迭建、其來久矣。舜協時月正日、亦所以一正朔也。子丑之建、唐虞之前、當已有之。
【読み】
△有扈氏、五行を威侮して、三正を怠棄す。天用て其の命を勦絕[そうぜつ]す。今予れ惟れ恭んで天の罰を行う。威は、之を暴殄[ぼうてん]するなり。侮は、之を輕忽するなり。鯀五行を汨[みだ]して殛死[きょくし]す。況んや之を威侮する者をや。三正は、子・丑・寅の正なり。夏の正は寅を建[さ]す。怠棄は、正朔を用いざるなり。有扈氏天物を暴殄し、輕忽不敬にして、正朔を廢棄し、下を虐げ上に背いて、罪を天に獲。天用て其の命を勦絕す。今我れ之を伐つ。惟れ敬んで天の罰を行うのみ、と。今此の章を按ずるに、則ち三正迭[たが]いに建す、其の來ること久し。舜の時月を協え日を正すも、亦正朔を一にする所以なり。子丑の建も、唐虞の前に、當に已に之れ有るべし。

△左不攻于左、汝不恭命。右不攻于右、汝不恭命。御非其馬之正、汝不恭命。左、車左、右、車右也。攻、治也。古者車戰之法、甲士三人、一居左以主射、一居右以主擊刺、御者居中以主馬之馳驅也。左傳宣公十二年、楚許伯御樂伯。攝叔爲右、以致晉師。樂伯曰、吾聞致師者、左射以菆。是車左主射也。攝叔曰、吾聞致師者、右入壘折馘執俘而還。是車右主擊刺也。御非其馬之正、猶王良所謂詭遇也。蓋左右不治其事、與御非其馬之正、皆足以致敗。故各指其人以責其事、而欲各盡其職而不敢忽也。
【読み】
△左左を攻[おさ]めざるは、汝の命を恭[つつし]まざるなり。右右を攻めざるは、汝の命を恭まざるなり。御其の馬の正しきに非ざるは、汝の命を恭まざるなり。左は、車の左、右は、車の右なり。攻は、治むるなり。古は車戰の法、甲士三人、一りは左に居りて以て射を主り、一りは右に居りて以て擊刺を主り、御者は中に居りて以て馬の馳驅を主るなり。左傳の宣公十二年に、楚の許伯樂伯に御たり。攝叔右と爲り、以て晉の師に致[いど]む。樂伯が曰く、吾れ聞く、師を致む者は、左は射るに菆[しゅう]を以てす、と。是れ車左は射を主ればなり。攝叔が曰く、吾れ聞く、師を致む者は、右は壘に入りて馘[きりみみ]を折[き]り俘を執りて還る、と。是れ車右は擊刺を主ればなり。御其の馬の正しきに非ずとは、猶王良が所謂詭遇のごとし。蓋し左右其の事を治めざると、御其の馬の正しきに非ざるとは、皆以て敗れを致すに足れり。故に各々其の人を指して以て其の事を責めて、各々其の職を盡くして敢えて忽にせざることを欲するなり。

△用命賞于祖。弗用命戮于社。予則孥戮汝。戮、殺也。禮曰、天子巡狩、以遷廟主行。左傳、軍行祓社釁鼓。然則天子親征、必載其遷廟之主、與其社主以行。以示賞戮之不敢專也。祖左、陽也。故賞于祖。社右、陰也。故戮于社。孥、子也。孥戮與上戮字同義。言若不用命、不但戮及汝身、將倂汝妻子而戮之。戰、危事也。不重其法、則無以整肅其衆而使赴功也。或曰、戮、辱也。孥戮、猶秋官司厲、孥男子以爲罪隷之孥。古人以辱爲戮。謂戮辱之以爲孥耳。古者罰弗及嗣。孥戮之刑、非三代之所宜有也。按此說固爲有理。然以上句考之、不應一戮而二義。蓋罰弗及嗣者、常刑也。予則孥戮者、非常刑也。常刑、則愛克厥威。非常刑、則威克厥愛。盤庚遷都尙有劓殄滅之無遺育之語。則啓之誓師、豈爲過哉。
【読み】
△命を用いば祖に賞せん。命を用いざれば社に戮[ころ]さん。予れ則ち孥[やっこ]まで汝を戮さん、と。戮[りく]は、殺すなり。禮に曰く、天子巡狩するときは、遷廟の主を以て行く、と。左傳に、軍行くときは社に祓い鼓に釁[ちぬ]る、と。然れば則ち天子親征するに、必ず其の遷廟の主と、其の社主とを載せて以て行く。以て賞戮の敢えて專らにせざることを示すなり。祖は左にて、陽なり。故に祖に賞す。社は右にて、陰なり。故に社に戮す。孥[ど]は、子なり。孥戮と上の戮の字とは義を同じくす。言うこころは、若し命を用いざれば、但戮すこと汝が身に及ぶのみにあらず、將に汝が妻子を倂せて之を戮す、と。戰は、危事なり。其の法を重んぜざるときは、則ち以て其の衆を整肅して功に赴かしむること無し。或ひと曰く、戮は、辱なり。孥戮とは、猶秋官の司厲に、男子を孥にして以て罪隷の孥とするがごとし。古人辱を以て戮とす。之を戮辱して以て孥とすると謂うのみ。古は罰は嗣に及ばず。孥戮の刑は、三代の宜しく有るべき所に非ず、と。按ずるに此の說固に理有りとす。然れども上の句を以て之を考うれば、應に一戮にして二義あるべからず。蓋し罰は嗣に及ばずとは、常の刑なり。予れ則ち孥戮すとは、常の刑に非ず。常の刑は、則ち愛厥の威に克つ。常の刑に非ざるときは、則ち威厥の愛に克つ。盤庚都を遷すに尙之を劓[はなぎ]り殄[た]ち滅ぼして遺し育[ひととな]すこと無けんの語有り。則ち啓の師に誓う、豈過ぎたりとせんや。


五子之歌 五子、太康之弟也。歌、與帝舜作歌之歌同義。今文無。古文有。
【読み】
五子之歌[ごしのうた] 五子は、太康の弟なり。歌は、帝舜歌を作るの歌と義を同じくす。今文無し。古文有あり。


太康尸位、以逸豫滅厥德。黎民咸貳。乃盤遊無度。畋于有洛之表、十旬弗反。太康、啓之子。尸、如祭祀之尸。謂居其位而不爲其事。如古人所謂尸祿尸官者也。豫、樂也。夏諺曰、吾王不遊、吾何以休。吾王不豫、吾何以助。一遊一豫、爲諸侯度。夏之先王、非不遊豫、蓋有其節。皆所以爲民。非若太康以逸豫而滅其德也。民咸貳心。而太康猶不知悔、乃安於遊畋之無度。言其遠、則至于洛水之南、言其久、則十旬而弗反。是則太康自棄其國矣。
【読み】
太康位を尸[つかさど]り、逸豫を以て厥の德を滅ぼす。黎民咸貳[ふたごころ]あり。乃ち盤遊して度[のり]無し。有洛の表に畋[かり]して、十旬まで反らず。太康は、啓の子。尸は、祭祀の尸の如し。其の位に居りて其の事をせざるを謂う。古人の所謂尸祿尸官という者の如し。豫は、樂しむなり。夏の諺に曰く、吾が王遊ばずんば、吾れ何を以てか休[いこ]わん。吾が王豫ばずんば、吾れ何を以てか助からん。一遊一豫は、諸侯の度と爲る、と。夏の先王、遊豫せざるに非ず、蓋し其の節有り。皆民を爲むる所以なり。太康の逸豫を以てして其の德を滅ぼすが若きには非ず。民咸貳心あり。而るを太康猶悔ゆることを知らず、乃ち遊畋[ゆうでん]の度無きに安んず。其の遠きを言えば、則ち洛水の南に至り、其の久しきを言えば、則ち十旬までにして反らず。是れ則ち太康自ら其の國を棄つるなり。

△有窮后羿、因民弗忍、距于河。窮、國名。羿、窮國君之名也。或曰、羿善射者之名。賈逵說文、羿、帝嚳射官。故其後善射者皆謂之羿。有窮之君亦善射。故以羿目之也。羿因民不堪命、距太康于河北、使不得返、遂廢之。
【読み】
△有窮の后羿[げい]、民の忍びざるに因りて、河に距[ふせ]ぐ。窮は、國の名。羿は、窮國の君の名なり。或ひと曰く、羿は善く射る者の名なり。賈逵[かき]が說文に、羿は、帝嚳の射官。故に其の後善く射る者を皆之を羿と謂う、と。有窮の君も亦善く射る。故に羿を以て之に目づくなり、と。羿民の命に堪えざるに因りて、太康を河の北に距いで、返ることを得ざらしめて、遂に之を廢す。

△厥弟五人、御其母以從、徯于洛之汭。五子咸怨、述大禹之戒、以作歌。御、侍也。怨、如孟子所謂小弁之怨、親親也。小弁之詩、父子之怨、五子之歌、兄弟之怨也。親之過大而不怨、是愈疏也。五子知宗廟社稷危亡之不可救、母子兄弟離散之不可保、憂愁鬱悒、慷慨感厲、情不自已、發爲詩歌。推其亡國敗家之由、皆原於荒棄皇祖之訓。雖其五章之閒、非盡迷皇祖之戒、然其先後終始、互相發明。史臣以其作歌之意、序於五章之首。後世序詩者、每篇皆有小序、以言其作詩之義。其原蓋出諸此。
【読み】
△厥の弟五人、其の母に御[はべ]りて以て從い、洛の汭[ほとり]に徯[ま]つ。五子咸怨んで、大禹の戒めを述べて、以て歌を作る。御は、侍るなり。怨は、孟子の所謂小弁[しょうはん]の怨みは、親を親しんずるというが如し。小弁の詩は、父子の怨み、五子の歌は、兄弟の怨みなり。親の過ち大いにして怨みざるは、是れ愈々疏なり。五子宗廟社稷危亡の救う可からず、母子兄弟離散して保つ可からざるを知りて、憂愁鬱悒[うつゆう]、慷慨感厲して、情自ずから已まず、發して詩歌を爲る。其の亡國敗家の由を推すに、皆皇祖の訓を荒棄するに原づく。其の五章の閒、盡くは皇祖の戒めを迷[たが]えるに非ずと雖も、然れども其の先後終始、互いに相發明す。史臣其の歌を作るの意を以て、五章の首めに序す。後世詩を序する者、每篇皆小序有り、以て其の詩を作るの義を言う。其の原は蓋し此より出づ。

△其一曰、皇祖有訓。民可近、不可下。民惟邦本。本固邦寧。此禹之訓也。皇、大也。君之與民、以勢而言、則尊卑之分、如霄壤之不侔。以情而言、則相須以安。猶身體之相資以生也。故勢疎則離、情親則合。以其親、故謂之近、以其疎、故謂之下。言其可親而不可疎之也。且民者國之本。本固而後國安。本旣不固、則雖强如秦、富如隋。終亦滅亡而已矣。其一其二、或長幼之序、或作歌之序、不可知也。
【読み】
△其一に曰く、皇祖に訓有り。民は近づく可く、下す可からず。民は惟れ邦の本なり。本固ければ邦寧し。此れ禹の訓なり。皇は、大いなり。君と民とは、勢を以て言うときは、則ち尊卑の分、霄壤[しょうじょう]の侔[ひと]しからざるが如し。情を以て言うときは、則ち相須[たす]けて以て安し。猶身體の相資[たす]けて以て生るがごとし。故に勢疎なるときは則ち離れ、情親なるときは則ち合う。其の親を以て、故に之を近づくと謂い、其の疎を以て、故に之を下すと謂う。言うこころは、其れ親しくす可くして之を疎んず可からざるなり。且つ民は國の本なり。本固くして而して後に國安し。本旣に固からざれば、則ち强きこと秦の如しと雖も、富隋の如し。終に亦滅亡せんのみ。其の一其の二とは、或は長幼の序か、或は歌を作るの序か、知る可からず。

△予視天下、愚夫愚婦、一能勝予。一人三失、怨豈在明。不見是圖。予臨兆民、懍乎若朽索之馭六馬。爲人上者、柰何不敬。索、昔各反。馭、音御。○予、五子自稱也。君失人心、則爲獨夫。獨夫、則愚夫愚婦、一能勝我矣。三失者、言所失衆也。民心怨背、豈待其彰著而後知之。當於事幾未形之時而圖之也。朽、腐也。朽索易絕。六馬易驚。朽索固非可以馭馬也。以喩其危懼可畏之甚。爲人上者、奈何而不敬乎。前旣引禹之訓言、此則以己之不足恃、民之可畏者、申結其義也。
【読み】
△予れ天下を視るに、愚夫愚婦も、一に能く予に勝つ。一人三失ある、怨み豈明らかなるに在らんや。見えざるを是れ圖れ。予れ兆民に臨むこと、懍乎として朽索の六馬を馭[おさ]むるが若し。人の上爲る者、柰何ぞ敬まざる、と。索は、昔各反。馭は、音御。○予は、五子自ら稱するなり。君人の心を失するときは、則ち獨夫と爲る。獨夫なるときは、則ち愚夫愚婦も、一に能く我に勝たん。三失とは、失う所衆きを言うなり。民の心の怨み背く、豈其の彰著を待ちて而して後に之を知らんや。事幾の未だ形れざるの時に當たりて之を圖るなり。朽は、腐るなり。朽ちたる索は絕え易し。六馬は驚き易し。朽索は固に以て馬を馭むる可きに非ず。以て其の危懼畏る可きの甚だしきに喩う。人の上爲る者は、奈何ぞしてか敬まざらんや。前に旣に禹の訓言を引いて、此には則己が恃むに足らずして、民の畏る可き者を以て、申ねて其の義を結ぶなり。

△其二曰、訓有之。内作色荒、外作禽荒、甘酒嗜音、峻宇彫牆。有一于此、未或不亡。此亦禹之訓也。色荒、惑嬖寵也。禽荒、耽遊畋也。荒者、迷亂之謂。甘・嗜、皆無厭也。峻、高大也。宇、棟宇也。彫、繪飾也。言六者有其一、皆足以致滅亡也。禹之訓昭明如此、而太康獨不念之乎。此章首尾意義已明。故不復申結之也。
【読み】
△其の二に曰く、訓に之れ有り。内に色荒を作し、外に禽荒を作し、酒を甘しとし音を嗜み、宇を峻[たか]くし牆に彫る。此に一つも有れば、未だ亡びざること或らず、と。此れ亦禹の訓なり。色荒は、嬖寵に惑うなり。禽荒は、遊畋[ゆうでん]に耽けるなり。荒は、迷亂の謂。甘・嗜は、皆厭うこと無きなり。峻は、高大なり。宇は、棟宇なり。彫は、繪飾なり。言うこころは、六つの者其の一つ有れば、皆以て滅亡を致すに足るなり。禹の訓昭明なること此の如くにして、太康獨り之を念わざらんや。此の章の首尾意義已に明らかなり。故に復申ねて之を結ばざるなり。

△其三曰、惟彼陶唐、有此冀方。今失厥道、亂其紀綱。乃厎滅亡。堯初爲唐侯、後爲天子都陶。故曰陶唐。堯授舜、舜授禹、皆都冀州。言冀方者、舉中以包外也。大者爲綱、小者爲紀。厎、致也。堯・舜・禹相授一道、以有天下。今太康失其道、而紊亂其綱紀、以致滅亡也。○又按左氏所引、惟彼陶唐之下、有帥彼天常一語、厥道、作其行、乃厎滅亡、作乃滅而亡。
【読み】
△其の三に曰く、惟れ彼の陶唐、此の冀方を有てり。今厥の道を失い、其の紀綱を亂る。乃ち滅亡を厎[いた]す、と。堯初め唐侯と爲り、後に天子と爲りて陶に都す。故に陶唐と曰う。堯は舜に授け、舜は禹に授け、皆冀州に都す。冀方と言うは、中を舉げて以て外を包ぬ。大なる者を綱とし、小なる者を紀とす。厎は、致すなり。堯・舜・禹相授くること一道にして、以て天下を有てり。今太康其の道を失いて、其の綱紀を紊り亂りて、以て滅亡を致す。○又按ずるに左氏に引く所は、惟彼陶唐の下に、彼の天常に帥[したが]いの一語有り、厥の道は、其の行と作し、乃ち滅亡を厎すは、乃ち滅して亡ぶと作す。

△其四曰、明明我祖、萬邦之君。有典有則、貽厥子孫。關石和鈞、王府則有。荒墜厥緒、覆宗絕祀。明明、明而又明也。我祖、禹也。典、猶周之六典。則、猶周之八則。所以治天下之典章決度也。貽、遺。關、通。和、平也。百二十斤爲石。三十斤爲鈞。鈞與石、五權之最重者也。關通以見彼此通同、無折閱之意。和平以見人情兩平、無乖忤之意。言禹以明明之德、君臨天下。典則・法度、所以貽後世者如此。至於鈞石之設、所以一天下輕重、而立民信者、王府亦有之。其爲子孫後世慮、可謂詳且遠矣。奈何太康荒墜其緒、覆其宗而絕其祀乎。○又按法度之制始於權、權與物鈞而生衡。衡運生規。規圓生矩。矩方生繩。繩直生準。是權衡者、又法度之所自出也。故以鈞石言之。
【読み】
△其の四に曰く、明明たる我が祖、萬邦の君なり。典有り則有り、厥の子孫に貽[のこ]す。石を關[とお]し鈞を和して、王府に則有り。厥の緒を荒墜して、宗を覆し祀を絕つ、と。明明は、明らかにして又明らかなり。我が祖は、禹なり。典は、猶周の六典のごとし。則は、猶周の八則のごとし。天下を治むる所以の典章決度なり。貽は、遺す。關は、通す。和は、平らかなり。百二十斤を石とす。三十斤を鈞とす。鈞と石とは、五權の最も重き者なり。關通以て彼れ此れ通同して、折閱無きの意を見す。和平以て人情兩つながら平らかにして、乖忤[かいご]無きの意を見す。言うこころは、禹明明の德を以て、天下に君とし臨む。典則・法度、後世に貽す所以の者此の如し。鈞石の設くるに至りて、天下の輕重を一にして、民信を立つる所以の者、王府にも亦之れ有り。其の子孫後世の爲に慮ること、詳らかにして且つ遠しと謂う可し。奈何ぞ太康其の緒を荒墜し、其の宗を覆して其の祀を絕たんや。○又按ずるに法度の制權より始まり、權と物と鈞しくして衡を生す。衡運規を生す。規圓矩を生す。矩方繩を生す。繩直準を生す。是れ權衡は、又法度の自りて出づる所なり。故に鈞石を以て之を言う。

△其五曰、嗚呼曷歸。予懷之悲。萬姓仇予、予將疇依。鬱陶乎予心、顏厚有忸怩。弗愼厥德、雖悔可追。忸、女六反。怩、女夷反。○曷、何也。嗚呼曷歸、歎息無地之可歸也。予將疇依、彷徨無人之可依也。爲君至此、亦可哀矣。仇予之予、指太康也。指太康而謂之予者、不忍斥言、忠厚之至也。鬱陶、哀思也。顏厚、愧之見於色也。忸怩、愧之發於心也。可追、言不可追也。
【読み】
△其の五に曰く、嗚呼曷[なん]ぞ歸らん。予れ之を懷[おも]いて悲しむ。萬姓予を仇とす、予れ將疇[だれ]にか依らん。鬱陶乎たる予が心、顏厚く忸怩たる有り。厥の德を愼まずんば、悔ゆと雖も追う可けんや、と。忸は、女六反。怩は、女夷反。○曷は、何なり。嗚呼曷ぞ歸らんとは、地の歸す可きこと無きを歎息するなり。予れ將疇にか依らんとは、彷徨して人の依る可き無きなり。君と爲りて此に至るは、亦哀しむ可きなり。仇予の予は、太康を指すなり。太康を指して之を予と謂うは、斥し言うに忍びず、忠厚の至りなり。鬱陶は、哀しみ思うなり。顏厚は、愧の色に見るなり。忸怩は、愧の心に發るなり。追う可しとは、言うこころは、追う可からざるなり。


胤征 胤、國名。孟子曰、征者、上伐下也。此以征名。實卽誓也。仲康丁有夏中衰之運、羿執國政、社稷危、在其掌握。而仲康能命胤侯以掌六師。胤侯能承仲康以討有罪。是雖未能行羿不道之誅、明羲和黨惡之罪。然當國命中絕之際、而能舉師伐罪、猶爲禮樂征伐之自天子出也。夫子所以錄其書者以是歟。今文無。古文有。○或曰、蘇氏以爲羲和貳於羿忠於夏者。故羿假仲康之命、命胤侯征之。今按篇首言、仲康肇位四海、胤侯命掌六師。又曰、胤侯承王命徂征。詳其文意、蓋史臣善仲康能命將遣師、胤侯能承命致討、未見貶仲康不能制命、而罪胤侯之爲專征也。若果爲簒羿之書、則亂臣賊子所爲。孔子亦取之爲後世法乎。
【読み】
胤征[いんせい] 胤は、國の名。孟子曰く、征は、上、下を伐つ、と。此れ征を以て名づく。實に卽誓なり。仲康有夏中衰の運に丁[あ]たり、羿國政を執りて、社稷の危は、其の掌握に在り。而して仲康能く胤侯に命じて以て六師を掌らしむ。胤侯能く仲康に承けて以て有罪を討つ。是れ未だ羿が不道の誅を行うこと能わずと雖も、羲和黨惡の罪を明らかにす。然れども國命中絕の際に當たりて、能く師を舉げて罪を伐つは、猶禮樂征伐の天子より出づることを爲す。夫子其の書を錄す所以の者は是を以てか。今文無し。古文有り。○或ひと曰く、蘇氏以爲えらく、羲和は羿に貳[ふたごころ]ありて夏に忠ある者。故に羿仲康の命を假りて、胤侯に命じて之を征す、と。今按ずるに篇の首めに言う、仲康肇めて四海に位し、胤侯命ぜられて六師を掌る、と。又曰く、胤侯王命を承けて徂いて征す、と。其の文意を詳らかにするに、蓋し史臣仲康の能く將に命じ師を遣り、胤侯の能く命を承けて討を致すを善しとして、未だ仲康の命を制すること能わずして、胤侯の專ら征するを爲すに罪ありと貶[そし]ることを見ず。若し果たして簒羿が書とするときは、則ち亂臣賊子のする所なり。孔子も亦之を取りて後世の法とせんや。


惟仲康肇位四海。胤侯命掌六師。羲和廢厥職、酒荒于厥邑。胤后承王命徂征。仲康、太康之弟。胤侯、胤國之侯。命掌六師、命爲大司馬也。仲康始卽位、卽命胤侯以掌六師。次年方有征羲和之命。必本始而言者、蓋史臣善仲康肇位之時、已能收其兵權、故羲和之征、猶能自天子出也。林氏曰、羿廢太康而立仲康。然其簒也、乃在相之世、仲康不爲羿所簒。至其子相、然後見簒。是則仲康猶有以制之也。羿之立仲康也、方將執其禮樂征伐之權、以號令天下。而仲康卽位之始、卽能命胤侯掌六師、以收其兵權。如漢文帝入自代邸卽皇帝位、夜拜宋昌爲衛將軍、鎭撫南北軍之類。羲和之罪、雖曰沉亂于酒、然黨惡於羿、同惡相濟。故胤侯承王命往征之、以翦羿羽翼。故終仲康之世、羿不得以逞。使仲康盡失其權、則羿之簒夏、豈待相而後敢耶。羲氏和氏夏合為一官。曰胤后者、諸侯入爲王朝公卿。如禹・稷・伯夷謂之后也。
【読み】
惟れ仲康肇めて四海に位す。胤侯命ぜられて六師を掌る。羲和厥の職を廢てて、酒もて厥の邑に荒[すさ]む。胤后王の命を承けて徂いて征す。仲康は、太康の弟。胤侯は、胤國の侯。命ぜられて六師を掌るとは、命ぜられて大司馬と爲るなり。仲康始めて位に卽いて、卽ち胤侯に命じて以て六師を掌らしむ。次の年方に羲和を征するの命有り。必ず始めに本づいて言う者は、蓋し史臣仲康肇めて位するの時、已に能く其の兵權を收むる、故に羲和が征、猶能く天子より出づるを善しとしてなり。林氏が曰く、羿太康を廢して仲康を立つ。然れども其の簒えるは、乃ち相の世に在りて、仲康は羿の爲に簒われず。其の子相に至りて、然して後に簒わる。是れ則ち仲康猶以て之を制すること有るなり。羿が仲康を立つるや、方に將に其の禮樂征伐の權を執りて、以て天下に號令せんとすればなり。而るを仲康卽位の始め、卽ち能く胤侯に命じて六師を掌らしめて、以て其の兵權を收む。漢の文帝代の邸より入りて皇帝の位に卽き、夜宋昌を拜して衛將軍と爲り、南北軍を鎭撫するの類の如し。羲和の罪、酒に沉亂すと曰うと雖も、然れども惡を羿に黨し、惡を同じくして相濟[な]す。故に胤侯王命を承けて往いて之を征して、以て羿が羽翼を翦る。故に仲康の世を終うるまで、羿以て逞[ほしいまま]にすることを得ず。仲康をして盡く其の權を失わしむれば、則ち羿が夏を簒うこと、豈相を待ちて而して後に敢えてせんや、と。羲氏和氏夏合わせて一官とす。胤后と曰うは、諸侯入りて王朝の公卿と爲る。禹・稷・伯夷之を后と謂うが如し。

△告于衆曰、嗟予有衆、聖有謨訓、明徵定保。先王克謹天戒、臣人克有常憲、百官修輔、厥后惟明明。徵、音澄。○徵、驗。保、安也。聖人謨訓、明有徵驗、可以定安邦國也。下文卽謨訓之語。天戒、日蝕之類。謹者、恐懼修省以消變異也。常憲者、奉法修職以供乃事也。君能謹天戒於上、臣能有常憲於下、百官之衆、各修其職以輔其君。故君内無失德、外無失政。此其所以爲明明后也。又按日蝕者、君弱臣强之象。后羿專政之戒也。羲和掌日月之官。黨羿而不言、是可赦乎。
【読み】
△衆に告げて曰く、嗟[ああ]予が有衆、聖に謨訓有り、明らかに徵[しる]し定め保んず。先王克く天の戒めを謹み、臣人克く常の憲有り、百官修め輔くれば、厥の后惟れ明明なり。徵は、音澄。○徵は、驗。保は、安んずるなり。聖人の謨訓、明らかに徵驗有り、以て邦國を定め安んず可し。下の文は卽ち謨訓の語なり。天の戒めとは、日蝕の類。謹むとは、恐懼修省して以て變異を消するなり。常の憲とは、法を奉げ職を修めて以て乃の事を供するなり。君能く天戒を上に謹み、臣能く下に常の憲有り、百官の衆、各々其の職を修めて以て其の君を輔く。故に君内に失德無く、外に失政無し。此れ其の明明の后爲る所以なり。又按ずるに日蝕は、君弱く臣强きの象。后羿政を專らにするの戒めなり。羲和は日月を掌るの官。羿に黨して言わず、是れ赦す可けんや。

△每歲孟春、遒人以木鐸徇於路。官師相規、工執藝事以諫。其或不恭、邦有常刑。遒、慈秋反。鐸、達各反。○遒人、宣令之官。木鐸、金口木舌、施政敎時、振以警衆也。周禮小宰之職、正歲帥治官之屬、徇以木鐸曰、不用法者、國有常刑、亦此意也。官以職言、師以道言。規、正也。相規云者、胥敎誨也。工、百工也。百工技藝之事、至理存焉。理無往而不在。故言無微而可略也。孟子曰、責難於君、謂之恭。官師百工不能規諫、是謂不恭。不恭之罪、猶有常刑。而況於畔官離次、俶擾天紀者乎。
【読み】
△每歲孟春、遒[しゅう]人木鐸を以て路に徇[とな]う。官師相規[ただ]し、工藝事を執りて以て諫む。其れ或は不恭なれば、邦に常の刑有り。遒は、慈秋反。鐸は、達各反。○遒人は、令を宣ぶるの官なり。木鐸は、金口木舌、政敎を施す時、振いて以て衆を警むるなり。周禮に、小宰の職、正歲に官を治むるの屬を帥いて、徇うるに木鐸を以てして曰く、法を用いざる者は、國に常の刑有りとは、亦此の意なり。官は職を以て言い、師は道を以て言う。規は、正すなり。相規すと云うは、胥[あい]敎誨するなり。工は、百工なり。百工技藝の事、至理存せり。理は往くとして在らざる無し。故に言う、微として略す可き無し、と。孟子曰く、難きを君に責む、之を恭と謂う、と。官師百工規諫すること能わず、是を不恭と謂う。不恭の罪には、猶常の刑有り。而るを況んや官を畔き次を離れて、俶[はじ]めて天紀を擾[みだ]る者をや。

△惟時羲和、顚覆厥德、沈亂于酒、畔官離次、俶擾天紀、遐棄厥司。乃季秋月朔、辰弗集于房。瞽奏鼓、嗇夫馳、庶人走。羲和尸厥官、罔聞知。昏迷于天象、以干先王之誅。政典曰、先時者殺無赦、不及時者殺無赦。次、位也。官以職言、次以位言。畔官、則亂其所治之職。離次、則舍其所居之位。俶、始。擾、亂也。天紀、則洪範所謂歲・月・日・星辰・曆數是也。蓋自堯舜命羲和曆象日月星辰之後、爲羲和者、世守其職、未嘗紊亂。至是始亂其天紀焉。遐、遠也。遠棄其所司之事也。辰、日月會次之名。房、所次之宿也。集、漢書作輯。集輯通用。言日月會次、不相和輯、而掩蝕於房宿也。按唐志、日蝕在仲康卽位之五年。瞽、樂官。以其無目而審於音也。奏、進也。古者日蝕、則伐鼓用幣以救之。春秋傳曰、惟正陽之月則然。餘則否。今季秋而行此禮。夏禮與周異也。嗇夫、小臣也。漢有上林嗇夫。庶人、庶人之在官者。周禮庭氏救日之弓矢。嗇夫庶人、蓋供救日之百役者。曰馳曰走者、以見日蝕之變、天子恐懼于上、嗇夫庶人奔走于下、以助救日如此其急。羲和爲曆象之官、尸居其位。若無聞知、則其昏迷天象、以干先王之誅、豈特不恭之刑而已哉。政典、先王政治之典籍也。先時後時、皆違制失時。當誅而不赦者也。今日蝕之變如此、而羲和罔聞知。是固下先王後時之誅也。
【読み】
△惟れ時[こ]の羲和、厥の德を顚覆し、酒に沈亂し、官を畔き次を離れて、俶[はじ]めて天紀を擾[みだ]し、厥の司を遐[とお]ざけ棄つ。乃ち季秋月朔、辰房に集わず。瞽は鼓を奏[すす]め、嗇夫[しょくふ]は馳せ、庶人は走る。羲和厥の官を尸[つかさど]り、聞き知ること罔し。天象に昏迷して、以て先王の誅[せめ]を干[おか]す。政典に曰く、時に先だつ者は殺して赦すこと無し、時に及ばざる者は殺して赦すこと無し、と。次は、位なり。官は職を以て言い、次は位を以て言う。官を畔くとは、則ち其の治むる所の職を亂るなり。次を離るとは、則ち其の居る所の位を舍[す]つるなり。俶は、始め。擾は、亂るるなり。天紀は、則ち洪範に所謂歲・月・日・星辰・曆數是れなり。蓋し堯舜が羲和に曆象日月星辰を命じてより後、羲和爲る者、世々其の職を守り、未だ嘗て紊り亂れず。是に至りて始めて其の天紀を亂る。遐[か]は、遠ざくるなり。其の司る所の事を遠ざけ棄つるなり。辰は、日月會次の名。房は、次ぐ所の宿なり。集は、漢書に輯に作る。集輯は通じ用ゆ。言うこころは、日月の會次、相和輯せずして、房宿に掩蝕するなり。唐志を按ずるに、日蝕は仲康卽位の五年に在り。瞽は、樂官。其の目無くして音に審らかなるを以てなり。奏は、進むなり。古は日蝕あるときは、則ち鼓を伐ち幣を用いて以て之を救う。春秋傳に曰く、惟れ正陽の月は則ち然り。餘は則ち否[しか]らず、と。今季秋にして此の禮を行う。夏の禮と周とは異なれり。嗇夫は、小臣なり。漢に上林の嗇夫有り。庶人は、庶人の官に在る者なり。周禮に庭氏日を救うの弓矢あり。嗇夫庶人は、蓋し日を救うの百役を供する者なり。馳すと曰い走ると曰うは、日蝕の變を見るを以て、天子は上に恐懼し、嗇夫庶人は下に奔走して、以て日を助け救うこと此の如くにして其れ急なり。羲和は曆象の官と爲りて、其の位に尸居す。聞き知ること無きが若きは、則ち其の天象を昏迷して、以て先王の誅を干すこと、豈特に不恭の刑のみならんや。政典は、先王の政治の典籍なり。時に先だち時に後るるは、皆制に違い時を失う。當に誅して赦さざる者なり。今日蝕の變此の如くにして、羲和聞き知ること罔し。是れ固に先王時に後るるの誅を下せり。

△今予以爾有衆、奉將天罰。爾衆士、同力王室、尙弼予、欽承天子威命。將、行也。我以爾衆士、奉行天罰。爾其同力王室、庶幾輔我、以敬承天子之威命也。蓋天子討而不伐、諸侯伐而不討。仲康之命胤侯、得天子討罪之權。胤侯之征羲和、得諸侯敵愾之義。其辭直其義明。非若五霸摟諸侯以伐諸侯、其辭曲其義迂也。
【読み】
△今予れ爾有衆を以[い]て、天の罰を奉け將[おこな]う。爾衆士、力を王室に同じくして、尙わくは予を弼け、欽んで天子の威命を承けよ。將は、行うなり。我れ爾衆士を以て、天の罰を奉け行う。爾其れ力を王室に同じくし、庶幾わくは我を輔けて、以て敬んで天子の威命を承けよ、と。蓋し天子は討して伐せず、諸侯は伐して討さず。仲康の胤侯に命ずるは、天子討罪の權を得たり。胤侯の羲和を征するは、諸侯愾[がい]に敵するの義を得たり。其の辭直にして其の義明らかなり。五霸諸侯を摟[い]て以て諸侯を伐つ、其の辭曲り其の義迂[まが]れるが若きには非ず。

△火炎崑岡、玉石倶焚。天吏逸德、烈于猛火。殲厥渠魁、脅從罔治。舊染汙俗、咸與惟新。殲、將廉反。○崑、出玉山名。岡、山脊也。逸、過。渠、大也。言火炎崑岡、不辨玉石之美惡而焚之。苟爲天吏而有過逸之德、不擇人之善惡而戮之。其害有甚於猛火不辨玉石也。今我但誅首惡之魁而已。脅從之黨、則罔治之。舊染汙習之人、亦皆赦而新之。其誅惡宥善、是猶王者之師也。今按胤征始稱羲和之罪、止以其畔官離次、俶擾天紀。至是有脅從舊染之語、則知羲和之罪、當不止於廢時亂日、是必聚不逞之人、崇飮私邑、以爲亂黨、助羿爲惡者也。胤皇徂征、隱其叛逆而不言者、蓋正名其罪、則必鋤根除源。而仲康之勢、有未足以制后羿者。故止責其曠職之罪、而實誅其不臣之心也。
【読み】
△火崑岡に炎ゆるときは、玉石倶に焚く。天吏德を逸[あやま]れば、猛火よりも烈[はげ]し。厥の渠魁を殲[つ]くし、脅從は治むること罔し。舊染の汙俗は、咸與に惟れ新たにせよ。殲は、將廉反。○崑は、玉を出だす山の名。岡は、山の脊なり。逸は、過つなり。渠は、大いなり。言うこころは、火崑岡に炎ゆるときは、玉石の美惡を辨たずして之を焚く。苟も天吏と爲りて過逸の德有るときは、人の善惡を擇ばずして之を戮くす。其の害は猛火の玉石を辨たざるよりも甚だしきこと有り。今我れ但首惡の魁を誅するのみ。脅從の黨は、則ち之を治むること罔し。舊染汙習の人も、亦皆赦して之を新たにせん。其の惡を誅し善を宥むる、是れ猶王者の師なり。今按ずるに胤征に始めて羲和の罪を稱すに、止に其の官を畔き次を離れ、俶めて天紀を擾すを以てす。是に至りて脅從舊染の語有れば、則ち知る、羲和の罪は、當に時を廢し日を亂すに止まらず、是れ必ず不逞の人を聚め、私邑に崇飮して、以て亂黨を爲し、羿を助けて惡をする者なり、と。胤皇の徂いて征する、其の叛逆を隱して言わざるは、蓋し其の罪を正し名づくるときは、則ち必ず根を鋤き源を除く。而れども仲康の勢、未だ以て后羿を制するに足らざる者有り。故に止に其の曠職の罪を責めて、實に其の不臣の心を誅するなり。

△嗚呼、威克厥愛、允濟。愛克厥威、允罔功。其爾衆士、懋戒哉。威者、嚴明之謂。愛者、姑息之謂。記曰、軍旅主威。蓋軍法不可以不嚴。嚴明勝、則信其事之必濟。姑息勝、則信其功之無成。誓師之末、而復嗟歎、以是深警之。欲其勉力戒懼而用命也。
【読み】
△嗚呼、威厥の愛に克つときは、允に濟[な]る。愛厥の威に克つときは、允に功罔し。其れ爾衆士、懋[つと]め戒めよや、と。威は、嚴明の謂。愛は、姑息の謂。記に曰く、軍旅には威を主とす、と。蓋し軍法は以て嚴にせずんばある可からず。嚴明勝つときは、則ち其の事の必ず濟ることを信ず。姑息勝つときは、則ち其の功の成ること無きことを信ず。師に誓うの末にして、復嗟歎して、是を以て深く之を警む。其の勉力戒懼して命を用ゆることを欲するなり。